本山級の建築に燃えた棟梁の思い
−高田別院山門を調査して− |
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真宗本廟造営物保存管理専門委員
伊原 惠司 (いはらさとし) |
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| ご修復が待たれる高田別院山門 |
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別院は一七三〇年に東本願寺掛所(かけしょ)として開かれ、藩家老であった小栗(おぐり)美作(みまさか)の屋敷跡を寺地として伽藍(がらん)が整備された。その後、火災・復興を繰り返し、現在の本堂は一九五八年、別院会館は二〇〇四年の再建であるが、幸い山門と鐘楼(しょうろう)は難を免れて往時の名残りを留める。山門は一八二七年(文政一〇)の建築で、棟梁は竹澤志摩則行(たけざわしまのりゆき)と伝える。門の左右には築地塀(ついじべい)形式の太鼓(たいこ)塀が矩折(かねお)れに東に延びて前庭を形成する。一見すると、建物の主体部に比べて軒の出が深く、屋根が大きくて重いという印象が先行するが、実はそれがこの門の大きな特徴でもある。
建立時の歴史によると「本山大門と同じく楼門(ろうもん)にしたい」と二重門の建築を出願したが許されず、一重門にしたという。その伝えを受けて再度見直すと、一重門では中央一間だけの扉口が通例であるのに対して二重門と同じく間口三間とも扉を開いている点、柱上の組物は大寺院の本堂級の「三手先(みてさき)」の形式、屋根も二重門の定番である「入母屋造(いりもやづくり)」であるなど二重門様式の要素が随所に見られ、寺格相応の二重門を目指した棟梁の熱い拘(こだ)わりが伝わってくる。
因みにこのような形式の門は全国の文化財でも数棟を数えるのみである。
細部の意匠も欅(けやき)の杢目(もくめ)を巧みに利用した彫物のモチーフ、彫刻技術とも見事である。欅造りの建築は江戸時代から増加し、特に文化・文政時代は最も彫刻装飾が発達した時期で、建物全体を彫物で華やかに埋めた建築も多く見られる。山門の彫刻はそれ等と比べても遜色が無く、本体の技術も精巧で合理的な構法が見られる。
山門は御門徒の厚い信心を受けた棟梁が、その思いを二重門の形に表すべく設計し、その特徴を建立が許された一重門に巧みに組入れた作品であり、江戸時代後半の越後地方の建築水準の高さを証明する貴重な文化遺産である。左右の塀も築地の外観を守りながら外部を板壁で仕上げているのは積雪による土の凍害、崩落に配慮したこの地方ならではの工夫と思われる興味深い工法である。 |
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真宗同朋会運動五十年の中で
林覚寺における同朋会の取り組み |
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第五組林覚寺 直江 智成 |
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このたび『貴寺における同朋会の取り組みと、真宗同朋会運動五十年について』という課題を与えられての原稿の依頼。確かに小職は現在、あと数年で住職在職五十年を迎えようとしているので、そのど真ん中を歩んできた事になります。昭和三十六年、宗祖親鸞聖人の七百回御遠忌法要が勤められたときには大谷大学の二回生。翌三十七年が同朋会運動の出発です。当時の訓覇(くるべ)総長の「家の宗教から個の自覚の宗教へ」の呼びかけで、末寺にとっての「同朋の会」結成に向けての運動が始まったと言えるでしょう。
学生であった私の周りにいた他宗派の人たちからは、いろいろ尋ねられましたが、教団として運動を立ち上げた背景とか理論などは皆目わからなかった中ですが、ともかく「新たに聞法の会を興せ」と言うことだろうと答えるのがせいぜいの状況。
昭和三十九年大学卒業と同時に住職に就いた私。当時寺内には小・中学生の弟妹が四人。本堂の内外にはいつも友達の子供の声が賑やかに広がっていました。
いつの間にか子供たちの真ん中に位置した私の最初の仕事は子ども会です。
林覚寺には「報恩講」、春秋の「彼岸会」、月例の「お講」(彰如上人の命日の六日)、直江津地区四ヶ寺で共同の「大谷婦人会」等が法座としてありましたが、勤行・法話はあるものの『御文』の言葉ではないが「酒飯茶ばかりにて退散せり」と言い当てられる状況とさして変わらなかったように思います。そのような中に同朋会運動としての呼びかけが聞こえてきます。
子ども会は二年目には日曜日を定例とするいわゆる「日曜学校」となり、以後約三十年続ける事になりますが、これも同朋会運動の中へ位置付けられる事になり、毎年の様に夏休み中の「児童の集い」で同朋会館へ出かけることになりました。
昭和四十一年、山崎順正師が駐在教導として赴任されたのを機に、師を講師として「林覚寺同朋の会」を発会する事になります。やがて特別伝道(特伝)の指定組に。忘れもしません。四十四年四月二十四日。特伝の事前研修という事で五組内住職と共に同朋会館に在館中の事です。故山崎義敬師(当時参務)が部屋に飛び込んでこられて「開申(かいしん)だ、開申だ」と。何の事だか解りませんでしたが、ともかくそれより十余年新宗憲が発布されるまでは何かと雑音の多い教団の動きではなかったでしょうか。しかしまた反面、当初の「家の宗教から個の自覚の宗教へ」というスローガンを受けての自主学習会が、各地域に興りました。私も、中野良俊先生、高原覚正先生、広瀬杲先生等を順次に講師として迎えての学習会に主体的に参加し、願いも次第に明確になり「講」などもかなりよい意味で変質して来た様に思います。
特伝、そして今日の「推進員養成講座」と続けられるご門徒への教化活動のなかで多くのご門徒が推進員として立ち上がり、また私自身も育てられている今日です。
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現在、当時の「同朋の会」毎月八日、年十二回、講師を招聘(しょうへい)しての法座で『唯信抄』のお話しを頂いています。今までに『歎異抄』、『正信偈』、『和讃』、『御文』等をそれぞれ何回繰り返したでしょうか。発会以来よほどの行事に重ならない限り休会した覚えがありません。三十人程度から通信費相当の会費は頂いていますが、出席は平均十余人でしょうか。九割方が推進員、若干の他寺院のご門徒がおられます。続けていく上では多々問題があります。一つは出席者の固定化。ただ年々新たな推進員が出席されますので極端な高齢化は感じられません。続けていく上での今一つの大きな問題は講師への謝礼ではないでしょうか。これには教務所や別院の職員方等を交通費の実費程度で招聘出来たらやり易いのではと思うこともあります。経費の負担が大きい事はなかなかクリアできない問題です。
推進員の人たちが自主学習会という形で「ご命日の集い」として毎月二十八日に集まられます。六十余名の推進員中五十五名程度が加入され、出席は「同朋の会」と同程度でしょうか。年会費一、五〇〇円で、事務局を構成し企画案内まで全て運営されています。当初は住職の『現代の聖典』の復讐から始めましたが、現在『高僧和讃』を学習しています。
この度の御遠忌法要に向けて『緑本』での勤行指導がありましたので、勤行は正信偈草四旬目下三淘で勤めています。時に巡讃をして頂くこともあります。これは当院が声明作法を学んでいる故に出来たのかもしれません。
十三日講(当初は六日講)では勤行後の住職の法話とお斎(当番制ではありません。寺側で準備しています)食事後、ボランティアのお手伝いを頂きアコーディオン演奏の元で懐かしいメロディーの合唱でひとときを過ごします。出席は必ずしも多くありませんが(十五〜二十人)、「同朋の会」、「ご命日の集い」にも出席される会員もおられます。
どのご寺院に於いても形はいかようであっても法座が続けられていると思いますが、当寺の特別な一つは月刊の『寺報』の発行でしょうか。今月で五百三十三号になります。これが続けられる事の大きな要因は
、お世話人が毎月『同朋新聞』と一緒に配布して下さるからでしょう。お世話人も八割は推進員であることも大きな利点であります。また住職は一座なりとも本願寺のご正忌報恩講には出仕することとして、毎年ご門徒と一緒に参るよう続けています。
日曜学校の一期生(当時小学六年生)が今年定年を迎えます。ぼつぼつ聞法の場へと声を掛けているのですが、どうでしょうか。既に推進員になっている青年もいるにはいますが。住職退職まで後数年、精一杯精進させて頂きます。 |
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久遠(くおん)の命
親鷲聖人″にお遇いできることの喜び |
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第四組皆順寺門徒 太田 幸松 |
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「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」に上洛しなかった私にとって、「御正当(ごしょうとう)報恩講」には地を這(は)っても行かねばなりませんでした。毎年の報恩講には家内を伴って親鸞聖人にお遇いに行くのが私達の年来の行事でしたが、実は七百五十回御遠忌法要にお伺いする事をたてに、一昨年の報恩講をパスしてしまいました。ですからその年はとうとう聖人にお遇いできなかったのです。自分の愚かさに身を抓(つま)む思いでした。年に一度聖人にお遇いする、いやお遇いできる事は私は現世で生活している証しなのですから…。この度の御正当報恩講に全国各地より参詣し、「御真影(ごしんねい)」の前に集う人々に触れて、皆様私と同じかなと勝手に想像し、今年も聖人にお遇い出来たことにほっとし、ちょっと嬉しく幸せになりました。
また今回は、私にとって初めての西本願寺聞法会館での宿泊と併せて、飛雲閣(聚楽第)他、数々の宝物を見学させていただき、往時の文化と人々に出会うことが出来ました。夕食後、藤原様より京都の街並や風土のご案内をいただき、京文化の再認識をいたしました。
今から、八百年程前、親鸞聖人はこの越後で生活されました。この地に赴かれたことは、ひょつとすると宇宙(万物を包容する空間)での出来事で、阿弥陀如来に遣わされた御使者なのでは…。と非現実的な想いを廻らしながら、昨年亡くなった母と毎朝、お内仏の前で一言二言の会話を楽しんでいるこの頃です。 |
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前号の拙稿に、「今年から始めた職員学習会で…」としたためたところ、「それって何?」とのお声をいただきました。今号は、この学習会についてお話します。
私が園長に就いてからおよそ一年が経過した頃、保育士達の考えを聞く機会を設けました。そこで話されたことは、例えば、ポリシーブック(園のあり方を紹介する小冊子)の発行や行事の見直し等々、具体的な取り組みへと繋がっているのですが、
「職員学習会」もそうした流れのなかで生まれてきました。
直接的には、これまで以上に浄土真宗の教えを基底にすえた保育を実践したいという私の考えを、半ば強引に保育士達に押し付けたのかもしれませんが、それらを経験した保育士の、「真宗保育を行うと言いながら、私達は真宗を学んでこなかった。はずかしい」という言葉が学習会を始めるきっかけでした。
学習会は「学ぶ会」と名づけられ、毎月一回、二班に分かれて常勤の全ての職員が参加します。「正信偈」のおけいこ、私の話、座談会というかたちで、午後四時から二時間程度、共に学びあっています。
現在では「正信偈」を皆で勤めることができるようになりました。なかんずく座談会は、「自分の思いを、自分の言葉で、自分から話す」ということを実は私の目標にしていたのですが、最近は、司会者に指名されなくても思ったことを話してくれます。このことが、今後の園にとってとても大切なことになると確信しています。 |
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| ●高田別院親鸞教室 |
| 『歎異抄』に学ぶ |
| 日時 |
毎月十二日 (三月から十二月) |
| 午後一時三〇分 |
| 講師 |
豊島 信氏 (六組西光寺) |
| 但し、四月は井上 円氏(十三組浄泉寺) |
| 会場 |
高田別院本堂 |
| テキスト |
『歎異抄』東本願寺出版 |
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| ●親鸞聖人ご命日の集い |
| 日時 |
毎月二十七日 午後一時三十分 |
| 会場 |
高田別院本堂 |
| 講師 |
| 三月 |
礪波康範氏 |
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四月 |
繁原立氏 |
| 五月 |
高田教務所職員 |
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六月 |
松村弘氏 |
| 七月 |
稲清水等氏 |
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八月 |
滋野憲史氏 |
| 九月 |
内山真明氏 |
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| 4月9日(月) |
別院奉仕研修 講師 井上 円氏 |
| 4月13日(金)〜14日(土) |
高田別院「春の法要」 |
| 8月5日(日) |
暁天講座 |
| 8月6日(月) |
不戦平和の誓いの鐘 |
| 10月5日(金)〜8日(月) |
高田別院「報恩講」 |
| 11月上旬 |
有縁講 (高田別院引率) |
| 11月27日(火)〜29日(木) |
真宗本廟(東本願寺) 御正忌報恩講団体参拝 |
お問い合わせは高田別院まで 025-523-2465 |
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| ◎高田別院 「春の法要」ご案内 |
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2012年4月13日(金) 〜 14日(土) |
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| 13日(金) |
9時30分 |
碑前法要 全戦没者追弔法要 法話 鎮西良胴氏 |
| 13時 |
納骨堂法要 |
| 13時30分 |
納骨者追弔永代経法要 |
| 14時 |
公開講演会 今井雅晴氏(筑波大学名誉教授)
講題「関東の親鸞聖人」−ご家族とともに− |
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【講演に寄せて】
越後の雪が消えた頃と思いますが、42歳の親鸞聖人は33歳の恵信尼さまやお子様方と関東に向かわれました。そして約18年間念仏の教えを広められました。その伝道活動は、ご家族があったからこそ実ったのであろうと私は考えています。
「家族」は昨年3月11日の東日本大震災以後、ふたたび見直され、大切にされています。この講演では、その観点も入れながらお話しさせていただきたいと思います。 |
| 16時 |
高田大谷保育園釈尊降誕会(お花まつり) |
| 14日(土) |
10時 |
東日本大震災追弔法要 引続法話 |
| 13時30分 |
宗祖親鸞聖人御誕生会音楽法要 法話 鎮西良昭氏 |
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| 編集後記 |
二十六年ぶりという大雪に、教区内の皆さん、毎日雪との格闘を続けられ、お疲れのこととお察し致します。
原稿をお寄せいただいた皆様、有り難うございました。何とか皆様のお気持ちをお伝えできれば、と思っております。
そして、悲しいお知らせになりますが、「高田別院だより」の題字を書いていただきました、小倉和久氏(八組 源長寺若院)が、去る一月十六日お亡くなりになりました。五十一才でした。 (正) |
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