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キッズふくしま サマーキャンプインたかだ2012
新潟県妙高市「苗名滝」8月3日 |
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本年六月二十九日付をもちまして、高田別院輪番を拝命致しました。
輪番職は前任地の仙台教区に於いて、東北別院と原町別院で勤めさせていただきました。輪番として何を成したかと問われましたら、お恥ずかしい限りとお答えするしかありません。しかしながら、別院が地域において有機的な存在として位置するという意味にあっては、東北別院は東日本大震災の支援活動の基点としてその役割を十全に果してまいりました。
勿論、輪番の資質とは全く無関係ではありますが、高田別院におきましても、御当地に別院が存在する意義と意味を支えて下さる皆さまと共に確かめてまいりたいと存じます。
さて、上越の地には私的な史跡巡拝と、児童教化連盟のスタッフ研修で他の平青少幼年センターに集(つど)いまして以来、二十数年振りのことであります。その折の「点」としての記憶はありますが、御当地の地域性から特徴については全く存じ上げないことから、皆さまにご理解いただけない言動があるかも知れません。その折には御叱咤御指導下さいますよう、お願いいたします。
宗祖親鸞聖人御流罪の地にあってその御遺徳を胸に刻み、日々お念仏の大道を歩まれておられる皆さまの目には、誠に心許ないと映ることでしょうが、宗祖親鸞聖人が「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」と本願の正機を感得され、「とも同朋」と歩みを同じくされたこの地にあって、私も皆さまに先導いただきながら道を同じくしたいと願っております。
終りになりましたが、日頃より高田別院の護持運営に御尽力頂いておりますことに厚く御礼を申し上げますとともに、二〇一人年に厳修されます高田教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が、高田別院の一層の発展の御勝縁となりますよう倍旧のお力添えを下さいますようお願い申し上げます。 |
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| 教如上人と高田の大谷派寺院 (第1回) |
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第11組 輪鳳寺 太田空賢 |
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| 教如上人寿像(五村別院蔵) |
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高田との関係に触れる前に、教如という人物について概観しておきます。
教如は本願寺の十二世です。本願寺は十一世顕如(けんにょ)までは一つでしたが、その後は東西に分かれました。したがって、教如は東本願寺になって最初の門主です。
そのため、大谷派の仏壇の脇掛け(向かって左)に教如の絵像が掛けられているのをよく見ます。
教如は永禄元(一五五八)年、顕如・如春尼(にょしゅんに)の長男として生まれました。同四年には親鷲聖人の三百回御遠忌法要が行われています。
元亀元(一五七〇)年、一三歳のとき父顕如から得度を受け法嗣(ほうし)となりました。そのころは、蓮如が石山(いしやま)坊舎をつくった所、今の大阪城がある所に本願寺がありました。
同年から天正八(一五八〇)年の十一年間本願寺門徒と織田信長との間に石山合戦と言われる戦いがありました。最後は、本願寺が苦しい状況になり、顕如は和睦せざるを得なくなりました。
しかし、石山本願寺の開城をめぐって、教如は父と意見を異にし、義絶されながらも徹底抗戦を主張しました。このときの両親と長男教如の対立が、やがて東西に分派する一つの要因となりました。
顕如は退去して紀州(和歌山県)の鷺森(さぎのもり)に移りましたが、教如は四か月ほど石山本願寺に籠城しました。しかし、結局は退去せざるを得なくなり、約二年間は越中(富山県)や尾張・三河(愛知県)など、いろいろな地域を流浪しました。
これらの地域には、教如をかくまったという伝承が残っています。また、この間に教如が下付(授与)した絵像なども現存しており、本願寺を継ぐ立場での活動をしていたことがうかがえます。そのことが、後に東本願寺を創立する基礎になったと言えるでしょう。
天正十(一五八二)年、本能寺の変で織田信長が滅ぶと、本願寺をとりまく状況がかわりました。義絶は解かれ、顕如・教如父子は協力して本願寺の再建に取り組むことになりました。本願寺は、天正十一(一五八三)年に鷺森から和泉(大阪府)貝塚の願泉寺に移りますが、十三年には豊臣秀吉から寺地を与えられ、大阪天満(てんま)に移ることになりました。
教如は茶人でもあり、千利休と親しかったので、茶の湯の人脈を活かした結果と考えられています。
しかし、天正十八(一五九〇)年、秀吉は京都への移転を命じました。寺地は顕如の申し出により七条堀川の地、今の西本願寺の所が与えられました。
天正二十年に顕如が亡くなると、秀吉は教如に継職させました。
ところが、母親如春尼は、末子で三男の准如(じゅんにょ)に宛てた顕如の譲り状があると、秀吉に申し出ました。
加えて、教如側に秀吉の怒りにふれるようなこともあり、わずか十一か月の在位で隠退の身となり、弟准如が継職することになりました。兄弟の年齢は三十六歳と十七歳でした。
文禄二(一五九三)年、教如は秀吉に「辞職納得書」を提出しました。しかしその後も、「大谷本願寺釋教如」の署名で、末寺へ絵像等を下付しており、隠退の意識はなく、門主の立場で活動していたわけです。
さらにまた、隠退三年後の文禄五(一五九六)年には、今の難波別院(大阪市)の前身の寺を「大谷本願寺」の名で建立したと言われております。今の難波別院の梵鐘の銘に「大谷本願寺」とあることから考えられます。
流浪中の活動に加えて、隠退後のこのような積極的な活動があって、東本願寺の創立になったと言えるでしょう。(続く)
(文中では「上人」を略す) |
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八月といえば、お盆です。上越地域でも、墓前読経が目立つようになりました。本来、真宗では父母の供養のために読経することはありません。しかし亡き人に思いを馳(は)せ、転じて自身の人生を問うことになるのなら、本当の意味での供養になると思います。
わたしは、以前から「住居」と「墓」に類似性を感じていました。
昔は一族が一つ屋根の下に住み、同じ○○姓【例えば鈴木姓】の本家の墓に入りました。近年では分家がそれぞれの独立した住居を持ち、○○○○氏【例えば鈴木太郎氏】家の墓を持つようになりました。最近の住居は一世代しか使用しませんから、墓もアパート形式の納骨堂になっていくのかもしれません。
「あなたと結婚したのであって、あなたの両親や家と結婚したのではない」と、嫁が先祖代々の墓に埋葬されることを嫌うという話も聞きます。その影響でしょうか、新しくお墓を立てる家庭が増える一方で、今までのお墓を処理する家庭も増えているようです。その際に「お骨の一部は持っていくが、残りは適当に処理してください」とお願いされることがあると聞きます。
寺院であれば共同廟所(びょうしょ)(集合墓)に納めるということもできるでしょう。しかし、石材店などでは人道的に考えて、人の骨を放置するわけにはいきません。一方で、他人の骨を保管しておくというのも難しいことです。
業者の湯かん(納棺前に亡き人の身体を拭く儀式)が粗雑だと、憤慨されている方がいました。その方に「あなたは駅前に倒れている知らない人の身体を拭けますか」と尋ねると、こういうセリフが返ってきました。
「冗談じゃない、そんな汚いもの…。」 私たちは自分に身近な存在だからこそ受け止められるということがあります。たとえ賃金を得る業者であっても、「汚い・怖い」という感覚は簡単に拭いきれないでしょう。(だからこそ、湯かんは近親者が行うことに意義があるのです。)
一人称(自分)の死は受け止めることができません。死ねば思考は停止するからです。また三人称(他人)の死も受け止めることもできません。それは私に関係ないからです。有名人でもなければ、せいぜい年齢を見て「私より年上か年下か」と思うぐらいでしょう。
二人称(近親者・知人)の死が一番こたえます。それが私の人生に直結するからです。だからこそ、遺族として通夜・葬儀と二日も三日も時間を取って儀式を執行するのでしょう。
前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、後に生まれん者(ひと)は前を訪(とぶら)え、連続無窮(むぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す。(『教行信証』「化身土巻」)
そう考えると、「子どもたちに迷惑をかけない」と表明する最近の生き方に疑問を感じます。なるほど聞こえはいいですが、逆に考えれば、子どもたちに迷惑をかけてもいいほどの関係に無いということに他なりません。そこにはわが子に自分の最期を、自身の人生を託せない寂しささえ感じさせます。
僧侶による墓前読経が大事なのではありません。むしろ墓前読経の場に子孫をいざなうことこそが肝要なのです。お盆やお彼岸の機会には、ぜひ子孫を連れてお墓に行き、その足で菩提寺に足を運ぶ。それが繰り返されていくことこそ、念仏相続の姿なのではないでしょうか。
継ぐべき家業も無い。知識や情報は、両親よりもインターネットで得る。そんな状況ですから近年、親から子に伝えられるものは少なくなってきています。そんな現代だからこそ、他人にできない まことのいのちの学び″をお伝えする仕事が私たち真宗門徒に託されているのではないでしょうか。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨をくだきても謝すべし (恩徳讃) |
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| 井波別院 「太子伝」法要を参詣して |
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第12組 明善寺 関澤榮子 |
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高田別院のご案内で、七月二十五日井波別院瑞泉寺でつとまりました「聖徳太子」法要に、四十一名で参拝いたしました。折しも明善寺同朋の会もご縁をえて、大勢で参詣いたしました。
本堂の隣り太子堂で、聖徳太子のご遺徳をしのび三〇〇年来の歴史ある絵解(えとき)法要です。参詣者は太子堂の中央寄りで法話を聴いていました。私も前の方に席を占め聴聞しました。しばらくして太子の安置されている御厨子がおごそかに開扉されました。太子二才の時といわれる合掌された尊像です。東方に向かって南無仏となられたお姿でしょうか。わずかな時間で閉扉となってしまいました。
親鷲聖人が聖徳太子の徳をしのばれて、たくさんの御和讃をつくられたことが想いおこされました。私の事前学習の甘さを恥入った次第です。
また多くの特別法宝物の拝観や、山門の楼上の釈迦三尊像、そして天女像のすばらしい天井絵を目にすることができました。各所に見られる彫刻等伝統芸術は木彫の町、門前町のたたずまいに感じ取ることができました。
最後に前田利長公の菩提をとむらうために建立されたという瑞龍寺にも拝観し、ユニークな説明で一日を終えることができました。 |
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八月十四日午後四時三十八分地元の糸魚川総合病院で亡くなられたという知らせを受け、身体全体の力が抜けたのをはっきりと覚えています。
十数年前「善正寺婦人会」の集まりに御縁を頂き、お付き合いが始まりました。その日が三月二十八日。二人の誕生日が同年同月日だと判明して以来不思議な緑と感じながら今までお付き合いをさせて頂きました。
この「高田別院だより」には、最初から関わって頂きました。このことと関わって以来、私は、大げさではなく「上宮さんと仕事をしたい」という思いで、教区のことや二組との関わりを持たせて頂いて来ました。
お付き合いを通して氏の「気配り」には色々と教えられました。本当に大きな人でした。氏亡き今、生きる目標を失い、どうしたらいいか、という思いで胸が一杯です。しばらくは、この思いに身を任せたいと思います。 |
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| ●高田別院親鸞教室 |
| 『歎異抄』に学ぶ |
| 日時 |
毎月12日 (3月から12月) |
| 午後1時30分 |
| 講師 |
豊島 信氏 (6組 西光寺) |
| 会場 |
高田別院本堂 |
| テキスト |
『歎異抄』東本願寺出版 |
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| ●親鸞聖人ご命日の集い |
| 日時 |
毎月27日 午後1時30分 |
| 会場 |
高田別院本堂 |
| 講師 |
| 9月 |
内山真明氏 |
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10月 |
山越英隆氏 |
| 11月 |
坂井龍輔氏 |
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12月 |
藤戸美帆子氏 |
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| 2013年3月 松浦彰英氏 |
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| 10月1日(月) |
別院奉仕研修 講師:藤戸秀庸氏 (五組 覺眞寺) |
| 10月5日(金)〜8日(月) |
高田別院報恩講 |
| 10月8日(月) |
公開講演会 講師:太田浩史氏 (高岡教区 大福寺) |
| 11月9日(金)〜10日(土) |
有縁講(高田別院引率) |
| 11月27日(火)〜29日(木) |
真宗本廟(東本願寺) 御正忌報恩講団体参拝 |
| 12月31日(月) |
除夜の鐘 おしるこ無料接待 |
| 2013年 |
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| 1月1日(火)〜3日(木) |
修正会 |
| 4月3日(水)〜5日(金) |
真宗本廟 (東本願寺) 教如上人四百回忌法要参詣
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お問い合わせは高田別院まで 025-523-2465 |
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| 編集後記 |
今年の夏も厳しい暑さで熱中症対策に忙しいうえ、四年に一度のオリンピックで更に熱くなり、眠れない夜を送っていました。どの競技の選手たちも最後まで諦めないその姿勢に、感動と勇気をもらいました。オリンピックで繰り広げられるドラマを観て「自分のもまだまだ頑張らねば!」と感じている今日この頃です。
(直) |
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