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年が明けると、第十二組では例年行われる報尽碑研究会の準備が始まります。
尾神殉難のあった前日の三月十一日は有縁の講師を招いてお話を聞き、そのテーマについて話し合います。翌十二日はいまだ雪深い尾神嶽中腹の報尽碑を有志で雪中参拝します。地表から二mを超える報尽碑は、年によりすっぽり常に埋まっていたり上部が見えていたり、その辺りは新雪があったり好天だったりさまざまです。ここ二、 三年は六十人ほどの参加者を得て、二十人ほどの方たちに雪中参拝をお勤めいただいています。
今回の研修では、加藤享子氏(富山民俗の会)による「刀利谷(とおりだに)の信仰生活」と、谷中定吉(たになかさだきち)氏(刀利会会長)による「刀利谷をつくった山崎兵蔵」をお願いしています。お二人は富山県のダムに沈んだ刀利付の、東本願寺への献木事業などの歴史を整理し、後世に伝える活動をされています。地域や事情は異なるとはいえ、先人の御苦労を後に伝える努力は大いに見習いたいと思います。
高田教区により、報尽碑に関わる調査と史料の整理は「尾神殉難誌 増補改訂版」としてまとめられています。当日、欅の巨木を引く作業に四十六集落から大勢が集まったとされています。地元集落のひとつである川谷地区には史料はほとんどなかったと聞いていますが、今の長老達が語る少々の話を紹介します。 「報尽碑の建つあたりは 三境ツンネ≠ニいわれ昭和二十五年くらいまで、尾神、石谷、川谷集落がそれぞれから道普請をした(ツンネは丘とか尾根の意」「大出口への遠足に報尽碑の近くを通る旧道を歩き、先生と一緒に手を合わせた」「戦争中、報尽碑の近くで小学生は畑を作った。休み時間にそのあたりで遊んだ」「巨木を引く作業に子供が集まった。ごま塩のおにぎりが目当てだった」「一張羅を着て引くも巨木は動かず、翌日から野良着を着て引いて動いた」「大声を出したから雪崩が起きた。あぶない所は黙って通れ」「欅がオラチの山で雪崩にあったと毎年田んぼ仕事の合間に聞かされた」「親類に被害あった。子守が雪崩にあった」「家にある、この横びつに入れて炊きだしにいった」「オラチの親父が巨木を引いて、雪崩にあって、本山から法名をもらった」「報尽碑近くで田んぼ仕事をした。人ナゼのへラ≠ヘ木が増え雪崩も起きなくなった(二十七名の人を呑み込んだナゼ(雪崩)のへラ(原)」これらは長老達が祖父母から、父母から、子から聞いたという話です。子は、学校で聞いた話を親に伝えたものと思われます。
今は報尽碑への道は整備され、道普請も楽になりました。機会がありましたら、どうぞお参りいただきたいと思います。 |
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| 七百五十年ぶりの里帰り『恵信尼文書』に学ぶ |
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第十一組 輪鳳寺 太田 空賢 |
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慶長三(一五九八)年には、教如と対立していた母親如春尼と、教如に隠退を命じた秀吉が没しました。
教如には、政治状況を先読みする力があったようです。秀吉亡き後の天下人は家康であろうと読み、意欲的に接近しました。家康もまた、教如を認め味方にしようとしました。
慶長五(一六〇〇)年九月、徳川家康が関ケ原の合戦に勝った直後から、家康と教如が頻繁に会見するようになりました。
そして慶長七年二月に家康が寺地を寄進し、そこに教如が東本願寺を創立しました。
教如の家庭生活については、その時代性も影響し、政略的な結婚もあるなど、複雑であり、わかっていない面も多くあります。
教如は四回結婚しており、十三人の子供(三男・十女)がありました。
最初の妻は、越前(福井県)の朝倉義景(よしかげ)の娘三位殿(さんみどの)で、一女があったことだけわかっています。
次の妻は、公家の久我通堅(みちかた)の娘ということだけわかっております。
三人目の妻は、教寿院といい、二男・七女がありましたが、二男・一女は早く亡くなりました。
四番目の妻は妙玄院(みょうげんいん)といい、一男・二女がありました。
教如は慶長十九(一六一四)年に五七歳で亡くなりました。
教寿院との間にできた二男が既に亡くなっていましたので、妙玄院との間にできた一人息子長麿が、わずか十一歳で後を継ぎ、十三世宣如となりました。
宣如と父母を同じくする姉と妹、いわゆる教如と妙玄院の娘は、二人とも高田に嫁ぎました。
姉の光暁院(こうぎょういん)(教如の九女)は、何年かはわかりませんが、浄輿寺十六世教善に嫁ぎました。妹の玄耀院 (げんよういん)(同十女)は、慶長十(一六〇五)年、本誓寺十二世宣英に嫁ぎました。
このことは、教如が高田を中心とする頸城、そして越後を重視していたことを示すものと言えるでしょう。
そして、それにはそれなりの歴史があったからだと考えられます。
十一年に及ぶ、本願寺門徒と織田信長との間で戦われた石山合戟について、先回触れました。
その戦いを支えるため、頸城の教団が多くの軍資金や兵糧米(ひょうろうまい)を送っていました。信長と対抗していた越後の大名上杉景勝と、浄輿寺や本誓寺を中心とした頸城の教団が連携していたのです。
この頸城の地から大坂まで出て行き、実際に戦いに参加した、という伝承をもつ寺もあります。その一例として、妙高市吉木の専念寺があります。
その寺伝によると、九世明順(みょうじゅん)は、天正二(一五七四)年三月の戦いに参加し、石山本願寺南門の大将をつとめ、大変勇猛な戟いぶりであったということです。
そしてその戦功により、顕如の御影(ごえい)・鎧通(よろいどうし)・硯箱(すずりばこ)が下付されました。また、その戦いぶりから、「勇猛山」を山号とすることをゆるされたと伝えられています。
珍しい山号ですが、その時代と教団の歴史を象徴していると言えるでしょう。
教如が隠退した後も、門主の立場で活動していたことも先回触れました。
高田教区内にも、教如が門主の立場で下付した絵像が多くの寺に伝えられています。
例をあげると、文禄五(一五九六)年に親鸞像を上越市安塚区小黒の専敬寺へ、慶長二(一五九七)年に顕如像を下野田の本覚坊・三和区田の称名寺へ、慶長七年に蓮如像を三和区本郷の西勝寺へ、慶長八年に教如寿像(生存中の絵像)を浦川原区飯室の本教寺へ、それぞれ下付されたものなどです。
教如とこの地域との関係について述べてきましたが、教如がこの地を重視したその根底には、ここが親鸞聖人の流罪の地であり、教団発祥の地であるということがあったと思われます。
(了) |
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| 本山(東本願寺)御正忌報恩講に参詣して |
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第七組 専念寺門徒 宮腰英武 |
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新潟親鸞学会主催「親鸞となむの大地展」が四月二十六日から六月八日まで、県立歴史博物館で開催されます。越後の板倉で終焉(しゅうえん)を迎えたといわれる親鸞の妻恵信尼が、晩年この地から京都の末娘覚信尼に送った消息が『恵信尼文書』と呼ばれ国指定重要文化財にされています。
大正十(一九二一)年、西本願寺の宝庫から、見附市安城寺住職で真宗史学者 鷲尾教導氏がこれを発見されました。
私は先年、本山での「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」に参拝、その折
「親鸞展」を見学、期待していた『恵信尼文書』と展示時期がずれ残念ながら拝見できませんでした。
今回の里帰りで夢が実現、期待しています。この文書により、恵信尼が親鸞の妻であり、夫親鸞の思想と生涯や子どもたちのこと、当時の越後の暮らし、そして恵信尼自身のことが知られるようになりました。
夫親鸞が観音菩薩の化身であるという夢「殿を観音と見た事は申しませんでしたが、心の中だけは、それ以降普通の方とお思いすることはありませんでした」と第三通にあります。また親鸞は、『親鸞夢記』で自分の妻になる女性は、救世観音である聖徳太子の化身であると告げられたとあります。夫婦ともども、夫は妻を、妻は夫を観音の化身と思ったことであります。それはまさに誠に稀有な愛情で結ばれた夫婦であったと思われます。また念仏の信念が二人の強い絆になったことでしょう。
最後の第十通には、恵信尼の家族に対する思いがあり、一番印象に残ります。恵信尼八十七歳、覚信尼四十五歳の文永五(一二六八)年の消息です。
「たよりをよろこびて申し候、−(略)−年こそおそろしくなりて候へども− (略)−
ただ犬のやうにこそ候へども、今年になり候へば、あまりにものわすれをし候ひて、
ほれ(耄)たるようにこそ候へ。」
越後の暮らしは苦難の連続だったようです。
また、京都の覚信尼からの贈り物の品「小袖をたびたび頂戴したことを誠にうれしく、これを死に装束にいたします。今はただ往生のことを待ち受けている身ですから」。ここでは死とか往生とかいう言葉が出てきます。「死」と「往生」は本質的に異なります。「死」は人間の最後ですが、「往生」は命の再生という意味があるといわれています。
最晩年、恵信尼の肉親に対する深い思いがせつないほど次の文節に表れています。
「きんたちの事よにゆかしくうけ給はりたく候也−(略)−あはれこのよ
(世)にていまいちと(一度)みまいらせ又みへまいらする人事候べき」
次に「極楽まいりあはせたもうべし」と恵信尼の極楽への憧憬が述べられています。「わが身は極楽へただいままいり候はんずれ」覚信尼にあなたもどうか念仏を称えて共に極楽へ参りましょうと勧めています。
このわずかな文章の中に恵信尼は極楽という語を三回も用いています。極楽へ参ればそこで父である親鸞と私、そしてあなたともお会いすることもできるでしょうから、すべてにことが明らかになるでしょうといっています。
この最後の手紙に書いている恵信尼の心情、家族愛は常に現在性を持っていることに大きな魅力を感じます。
『恵信尼文書』の里帰りを機会に直筆をじっくり拝見し、恵信尼の心に触れたいものと念じています。
なお、上越市板倉区米増、ゑしんの里記念館内『ゑしんミュージアム』には 『恵信尼文書』(複製)はじめ絵像、伝絵、等展示してあります。
(板倉郷土史愛好会会長) |
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二〇一八年四月の高田教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌に向けて、高田別院の山門御修復事業が決定し、募財も始まりました。当初、私は山門御修復については積極的に賛成する者ではありませんでした。別院の由緒・山門のいわれ等のことがよく分かっていないうえに、年間何十回となく別院に足を運ぶ事があっても、ほとんど山門をくぐる事がありませんでした。いつも車の中から或いは屋内から、遠くに見えている風景でしかなかったと思われます。この度の教区御遠忌を縁に、改めて高田別院や山門のことがらを学び直す事を与えられ、この機会に修復することが望ましいと思うようになりました。
門であるからには、くぐってみて始めて自分にとっての門なのであります。この真実の教えの門に入りなさいと催促して下さり、出でては有縁の人に教えを伝え、よろこび合いなさいと願って下さる象徴でありましょう。
真宗の門には框(かまち)がないといわれます。誰もが出入りできることを意味し、必要のないものであるからです。三年前の春、四十数年ぶりで知恩院を訪ねました。こちらの山門は京都の三大門として有名だそうですが、真ん中には、またがなくては通れない框がありました。車イスではとても入れそうもない高さのものでした。挙句に山門を抜けてからは三十センチ程の高さのある石段を何十段も登り、ようやく御影堂の白洲に至った時は、息が上がってしばらく立ち止まった程でした。禅宗様式で建てられたとありましたが、念仏門のお寺ながら何か人をふるいにかけている様な感じがしました。こうしてみると、山門の框とは結界を意味すると思われました。
高田別院会館を建設した時の剰余金の扱いについて、将来の別院整備、とりわけ山門修復のための基金にと願われたことを尊重し、他の施設とともに高田別院のものとして護持されていくことが望まれます。
一時、別院不要論が話題になったことがありますが、今でもそう思っている人がおられるかも知れません。
別院存立の意義は、いうまでもなく本山の支院として別の所に建てられた寺院ということであり、崇敬下の僧侶門徒が一つになって儀式をつくり上げ、そこに参加することにあると思います。儀式の中でも報恩講が最も重く大切な御仏事であります。「おたや」の名で親しまれてきたこの別院報恩講を何としても伝えて行かねばなりません。そのためには崇敬下の住職尊属方が御門徒とともに足を運び、一座なりとも出仕を致すことに尽きると思われます。 |
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高田教区宗祖親鸞聖人
七百五十回御遠忌法要厳修に向けて |
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高田教区門徒会副会長
第八組 覚善寺門徒 平野 宏 |
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高田教区では「御恩忌お待ち受け越後御流罪八百年法要」が二〇〇七年五月、「親鸞の道を生きる」のテーマで厳修された。当時、参詣部会として貴重な経験をさせていただいた。居多ケ浜での御流罪上陸の地参拝式の情景は今も記憶に残っている。
お迎えする高田教区御遠忌法要の日程は二〇一八年四月十八日〜二十四日と定められた。この度は、御遠忌推進委員会、常任委員として、総計画の審議に参加させていただいたのでその経過について少し触れてみたい。
基本方針は検討、協議、承認、議決とそれぞれの段階を経て策定された。関係各位のご尽力に敬意を表すとともに宗門各位にもご理解をいただき教区挙げての御遠忌となることを期待したい。二〇一一年八月御遠忌推進委員会が発足、約ニケ年間の協議、検討がなされてきた。御遠忌総計画案は二〇一三年五月数区内全組を巡回説明会がもたれ意見、要望を聴取し計画に生かすべく検討がなされた。更に総計画は、御遠忌通信、教務所報により周知されるよう配慮された。
ご承知のように記念事業は高田別院山門、新井別院屋根の修復が計画され御修復委員会で具体的な検討がなされている。御遠忌総計画承認までは、常任委員会、各部会、必要に応じて教区会議員・教区門徒会員合同懇談会、教区会参事会で審議され議決は教区会(通常会)、教区門徒会(通常会)を経て決定された。
御遠忌特別会計予算(案)は自二〇一三年七月一日至二〇一八年六月三十として編成され各年度別予算も提示された。御恩忌総予算は三億九九八〇万円、募財額は二億四九八〇万円、募財期間は二〇一三年七月一日より二〇一八年二月二十八日の五会計年度四年八ヶ月となっている。このような経過を経て教区の共通理解のもと御遠忌法要の大綱が示された。
これからは、御遠忌お待ち受け期間、具体的な各部会の取組み、組、教区教化事業、真宗同朋会運動等の推進に向けて真宗門徒として一人ひとりが自らの問題として受けとめその役割を果たしていきたいものと願っている。
さて、御遠忌テーマは「私はどこで生きているのか〜たずねよう真宗の教えに〜」とされた。昨今、我々をとりまく環境は政治、経済、社会、宗教、人々の物の考え方など大きな転換期を迎えているように思われる。三万人を超える自殺者、老人の孤独死、悲惨な殺傷事件、このような時代を生きる者として御遠忌は念仏者としての生き方の大切なテーマが示されているように思う。宗門の閉塞感、危機意識の欠如が宗議会でも指摘されているが、再度御遠忌を迎える意義を確認し、教区を挙げて宗門の新たな道をきり拓く御遠忌をお迎えできるよう、各自が心したいものと思っている。 |
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| ●高田別院親鸞教室 |
| 『歎異抄』に学ぶ |
| 日時 |
毎月十二日 (三月から十二月) |
| 午後一時三〇分 |
| 講師 |
豊島 信氏 (六組西光寺) |
| 会場 |
高田別院本堂 |
| テキスト |
『歎異抄』東本願寺出版 |
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| ●親鸞聖人ご命日の集い |
| 日時 |
毎月二十七日 午後一時三十分 |
| 会場 |
高田別院本堂 |
| 講師 |
| 3月 |
藤枝義丸氏 |
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4月 |
矢嶋一樹氏 |
| 5月 |
小島英子氏 |
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6月 |
滋野憲史氏 |
| 7月 |
選定中 |
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8月 |
森 惠成氏 |
| 9月 |
金子光洋氏 |
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10月 |
横山英一氏 |
| 11月 |
選定中 |
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12月 |
選定中 |
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| 4月7日(月) |
別院奉仕研修 講師 藤島 直氏 |
| 4月11日(土)〜12日(日) |
高田別院「春の法要」 |
| 8月5日(火) |
暁天講座 |
| 8月6日(水) |
不戦平和の誓いの鐘 |
| 10月10日(金)〜13日(月) |
高田別院「報恩講」 |
| 11月上旬 |
有縁講 (高田別院引率) |
| 下旬 |
真宗本廟(東本願寺) 御正忌報恩講団体参拝 |
お問い合わせは高田別院まで 025-523-2465 |
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| ◎高田別院 「春の法要」ご案内 |
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2014年4月11日(金) 〜 12日(土) |
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| 11日(金) |
9時 |
納骨堂法要 |
| 9時30分 |
納骨者追弔永代経法要併修
全戦没者追弔法要 |
| 引き続き |
法話 長尾正示氏(第8組大嚴寺) |
| 13時 |
碑前法要 |
| 13時30分 |
東日本大震災追弔法要 |
| 引き続き |
公開講演会 佐々木隆道氏(仙台教区気仙組本稱寺)
講題 「いのちと光に出遇う」 −3・11から今日までの想い− |
| 12日(土) |
9時30分 |
高田大谷保育園釈尊降誕会 (お花まつり) |
| 13時30分 |
親鸞聖人御誕生会音楽法要講題 教如上人と高田の大谷派寺院 |
| 引き続き |
法話 長尾正示氏 |
【講演に寄せて】
震災から三年を経ようとしていますが、現地の状況はほとんど変化がない状況です。もう世の中では、震災は過去のことと思われているように感じているこの頃です。
震災で多くの方の命が失われました。それと同時に多くの命が生かされました。生かされた私は、震災で経験した悲惨さ、人のつながりの大切さ、数多くの支援に対する感謝を伝え続ける役目があるのだと考えていますので、高田別院での講演の機会を頂いたことに感謝しております。 佐々木隆道 |
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| 編集後記 |
ここ数年も例を見ない小雪、そして今まで経験したことのないような朝夕の厳しい冷え込みがある冬を過ごしています。異常気象といわれていることの中で起きている現象なのでしょうか。関東甲信では今までにない大雪に見舞われ大変なことになっています。一時も早い復興が待たれます。
ご多用の中、原稿をお寄せ下さった皆さまに感謝申し上げます。有り難うございました。
春の法要の公開講演会に、陸前高田本稱寺の佐々木さんをお願い致しました。どうぞ時間を空けてお出かけいただきたいと思います。 (正) |
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