高田別院だより 2016年9月5日 第33号
新任のご挨拶
真宗大谷派高田別院輪番  荷葉(かよう) 一浩
 6月29日付にて高田別院輪番を拝命いたしました。前任地は九州の日豊(にっぽう)教区四日市別院でお世話になっておりました。皆様方には日頃から高田別院の活動に対しましてお力添えを賜っておりますこと御礼申し上げます。

 前任地で今年の四月に宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要の御縁に遇わせていただき、少しほっとして次の課題にと思っていたところに異動を命じられました。こちら高田の地へは本山の青少幼年センターでお世話になっていた頃には一年に一度、池の平青少幼年センター運営委員会で寄せていただいていたことでございます。不思議なご縁を賜りました。

 私どもの本山は京都の東本願寺でありますが、全国にはそ地域の教化の中心道場として堂宇を備え、本尊を安置し、教義を宣布し、儀式を執行し、僧侶及び門徒を教化育成し、教区の機関及び施設との緊密な連携のもとに、地方の特性に応じて教化に必要な業務を行い、もって同朋社会を実現することを目的として別院が置かれています。

 高田別院が親鸞聖人のお念仏の教えを通して私一人が明らかにされる念仏の道場としてさらに開かれますよう精進してまいります。また、2018年4月にお迎えする高田教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要にむけて、一つひとつ確実に仕事を進めてまいる所存でございますので、何卒皆様方のご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。
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大門御修復途中見学会に参加して 第12組(柿崎)教念寺 朝川 睦洋
 教区御遠忌の総計画が始まったのは、私が12組の組長として御遠忌推進委員会の一員となった年(2011年)であった。記念事業として「大門の御修復を」という声があがった時、諸手を挙げて賛成の意見を述べた事を思い出す。

 1827(文政10)年に建立されて以来何回かの大雪に見舞われ、その都度修理や補強工事がなされ、かろうじて今日の姿を保っているという。190年もの間、よく持ち堪えてきたものだ。大地震があれば、倒壊は免れないであろう。

 解体工事が始まった時、組み直しが始まった時と、二回の見学会に参加させていただいた。外見的にも大変な状態であったが、内部は素人の私にも確認できるほど、かなりの部材の破損や腐蝕が進んでいた。幸いにも組み物や彫り物には腐蝕が少なかったとの説明があり、安堵した。

 小屋組みの中心となる桔は ね ぎ木や梁はりなど強度の足りないものは、新しい材に取り更えられたり、継ぎ足されたりしていた。一人で抱えきれないほどの桔木が、何十本も組み込まれた様に、感動と感謝で目頭が熱くなった。伝統的な技と、最新の建築技術との融合を目の当りにした。今後何百年も、シンボルとなってくれよと願った。

 猛暑の中、汗まみれになって仕事しておられる大工さんや工事関係者に、心からの感謝の気持で見学を終えた。

 御遠忌の盛大なるを祈りつつ、早く御修復成った大門の雄姿を見たくなった。
 
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『聖徳太子』について 第5組(直江津)善正寺 大場 正信
宗祖親鸞聖人は和讃の中に

   和国の教主聖徳皇
   広大恩徳謝しがたし
   一心に帰命したてまつり
   奉讃不退ならしめよ

と書かれています。(聖典p.508青本p.271)和国の教主とは日本にとってのお釈迦様という意味ですが、この事は594年に『三宝興隆の詔みことのり』を聖徳太子が出された事を感謝しての事と思います。それまで日本では仏教をめぐって対立が続いていましたが、この詔を太子が出された事によって正式に仏教が認められました。「太子がいなかったら日本に仏教が栄える事はなかったであろう。」と宗祖は考えられたのだと思います。
 又、

   救世観音大菩薩
   聖徳皇と示現して
   多多のごとくすてずして
   阿摩のごとくにそいたまう

という和讃があります。(聖典p.507青本p.267)宗祖は九才で出家されたので、それまでに両親とお別れになったはずですが、父母のごとく太子を慕っておられるのは、幼くして父母と別れた寂しさからだと思います。

 この和讃の中で宗祖は観音菩薩と太子を同一視されています。この事からは六角堂の夢告が連想されます。この夢告により「煩悩を背負ったままでも、仏の方から導いてくださり救いにあずかるのだ。」という事を気付かれた宗祖は、後に恵信尼公と共に在家生活を営みながら仏道を歩まれます。当然、在家の仏教者の大先輩に対する尊敬の念を持ち続けたものと思います。

 年代が前後しますが磯し な長がの夢告については昔はなぜ『十年の命』なのかが分からなかったのですが、今では「雑行を捨てて本願に帰す」まで十年、まさしく生まれ変わるまでの十年という事なのかと思うようになりました。

*磯長の夢告について(補充) 建久2年(1191)、親鸞19歳の時、大阪の磯長という所にあった聖徳太子廟に3日参籠したと伝えられています。2日目の真夜中に、太子が現れて告げられたという言葉の中に、「汝が命根は、まさに十余歳なるべし」というものがあり、聖人はこの言葉を深刻に受け止められたと思われます。
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『堀前惠裕氏を偲んで』 高田別院責任役員 楠田 昌樹
 堀前さんとは、高田別院責任役員並びに式支配の職務を共に務めてまいりました。

 責任役員は、堀前さんが若干早く、式支配は、私が若干早く就任し、それぞれ八年から十年、別院の運営にかかわってまいりました。

 諸会議では、進んで発言する方ではありませんでしたが、「沈思黙考」「熟思黙想」し、発言するまでもなく全てを理解されていた方でした。例年の別院報恩講でも、結願逮夜より御参修となり緊張が走る中いつも冷静で、記憶が曖昧な私は、几帳面な堀前メモに随分助けられました。

 高田真宗学院でも長い間、指導として「中国仏教史」を担当され、第八期真宗学院では指導主任も務め、また高田教区准堂衆会でも長い間、事務局を務めていただきました。教区内でも数少ない教学、儀式声明を両輪で学ばれ、活躍されたことは周知のところです。 

 去る、五月二十日から二十二日まで、親戚寺院でもある第一組西性寺様の御遠忌法要が厳修され、見た目は元気に出仕されていましたが、その後、六月二日に教区御遠忌儀式法要部会でお会いした時には、顔色も悪く体調の悪さが明らかに感じとられました。会議前に呼び止められ「体調が悪いので検査入院することになりました。十月の別院報恩講までには復帰しますから。」堀前さんとの最後の会話となりました。

 堀前さんとの思い出話は沢山ありますが、最後に一話だけ書かせていただき筆を置きます。

 数年前の東日本准堂衆会研修で、会場は秋田だったか山形だったか、研修会も二日目の午前で終了し、その帰路のことです。車での移動中、新潟までは下道を走り、高速に乗る前の最後のコンビニに寄り、堀前さんのコンビニ袋の中には、ヱビスビールの500缶二本とつまみ。研修会疲れ、前夜の懇親会での飲み疲れ、車での移動疲れの中、「堀前さん、まだ飲むんですか?」と尋ねると、返ってきた言葉が、ニコニコしながら「おつもりです。」
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高田別院俳壇(8月19日)
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◎定例法話のお知らせ
●高田別院親鸞教室
『歎異抄』に学ぶ
日時 毎月12日 (3月から12月)
午後1時30分より
講師 豊島 信氏 (第六組 西光寺)
会場 高田別院本堂
テキスト 『歎異抄』東本願寺出版
 
 
●親鸞聖人ご命日の集い
日時 毎月27日 (3月から12月)
午後1時30分より
会場 高田別院本堂
講師
9月 星川 了氏 10月 清澤 和音氏
11月 上野 實英氏 12月 堀河 真淳氏
2016年3月 講師選定中
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◎高田別院行事ご案内
2015年
10月3日(月) 別院奉仕研修  講師 古海 法雲氏 (第五組林正寺)
10月6日(木)〜9日(日) 高田別院報恩講

法話 6日 岩崎 英宣氏 (第十一組專敬寺)
法話 7日 渡邉 智子氏 (第一組本立寺)
法話 8日 井上 一英氏 (第十三組福淨寺)
10月9日(日)  公開講演会  講師 一楽 真氏 (大谷大学教授)
11月8日(火)〜9日(水) 有縁講(高田別院引率)
11月20日(日)〜22日(火) 真宗本廟(東本願寺)
両堂等御修復完了奉告法要団体参拝
12月31日(土) 歳末昏時・除夜の鐘 おしるこ無料接待
2016年
1月1日(日)〜3日(火) 修正会

お問い合わせは高田別院まで  025-523-2465
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編集後記
 4年に1度のオリンピックが終わりました。
 開催地がリオデジャネイロということで、昼夜逆転、若しくは連日寝不足という方も多くおられたことでしょう。
 素晴らしい成績を残した日本人選手団の活躍の中で、私の心に強く残っているのは吉田沙保里選手です。
 彼女のこれまでの数々の成績を思えば今回のメダルの色など、私はまったく関係がないように思います。
 2004年のアテネオリンピックからの12年間、努力し重圧に耐え続けてきた彼女には本当に頭が下がります。
 次回のオリンピックに向け、すでに準備を始めている選手もいることでしょう。
 私が進めていることといえば、東京オリンピックをどこで見るか、どの競技を見るかまったく比にならない小さな目標です。
(直)
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