高田別院だより 2006年3月15日 第12号
宗祖と越後B (五)愚禿という姓
第十三組 浄泉寺  井上 円

第十三組 浄泉寺 井上円
  当時の規則では、出家した僧をそのままで遠流に処することはできなかった。先ず還俗させなければ成らなかった。具体的には「姓名」、つまり所属する氏族の「姓」と俗名としての「名」を与えることで、在俗の身とし、初めて処罰するわけである。

  法然上人は「藤井元彦」、親鷲聖人は「藤井善信(よしざね)」という姓と名を与えられたと伝えられている。法然上人の元の姓は「漆間(うるま)」といわれ、親鷲聖人は「日野(ひの)」といわれているから、還俗といっても、元の姓に戻ったわけではない。比叡山出身の二人に共に「藤井」の姓を与えたのは、この弾圧の三十年前、源平合戦直前の治承一年(一一七七)五月、後白川法皇の逆鱗に触れた天台座主明雲に「藤井松枝」という還俗名を与えている。その先例を踏襲したものである。

  この罪名として「姓名」が与えられたことに対して、親鷲聖人は強く反発をしていく。「藤井」という姓を拒否して、『しかればすでに僧に非ず俗に非ず、是の故に禿の字を以て姓とす』と述べている。この弾圧が不当なものであり、無実の罪であると主張する聖人にとってみれば、この姓名を受け入れるわけにはいかなかった。しかも権力者の横暴によって、僧と俗を好き勝手にされてはたまらなかったはずである。僧でなければ俗、俗でなければ僧と決まり切っていた常識に対して、「僧に非ず俗に非ず」と、全く新しく念仏者の生きる姿勢を明らかにしたのが、「禿」という姓であった。聖人はこれ以降、多くは「愚禿」、あるいは「愚禿釈」という姓を名告っていく。「禿」とは、文字としては「かむろ」、はげあたまという意味であるが、一度きれいに剃髪した頭の髪が伸び出してきた姿を表わす言葉といわれている。

  しかし姓は、単に個人を示すものではなく、類を表わすものであるから、「愚禿」は、聖人個人の姓ではなくして、本願念仏を生きる人達全ての姓という意味合いで、創造されたのではないか、と考えている。具体的には、吉水の念仏の集いと、越後で出遇っていった人達の中で、同じ「愚禿」の姓を共有する感覚というものが、なければならなかったはずである。聖人は、この姓を、勅免の時にわざわざ申し出て、朝廷に公認させるという徹底ぶりであった。
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