高田別院だより 2006年3月15日 第12号
宗祖と越後B (六)綽空・善信・親鸞の名
第十三組 浄泉寺  井上 円

  さらに罪名にされた「善信(よしざね)」にも、聖人は困惑したはずである。それは「善信(ぜんしん)」という名には、非常に大切な意味があったからである。

『教行信証』 坂東本
しかればすでに僧に非ず俗に非ず是の故に禿の字を以って姓とす

  聖人は、二十九歳の時比叡山を下りて、法然上人の門に入って、師法然(源空)よりその一字をもらい、また中国の道綽禅師の一字を加えて、「綽空」(しゃっくう)と名付けられていた。元久二年(一二〇五)になって、法然は聖人に対し、先ず自らの書 『選択本願念仏集』 (せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)の書写を許し、さらに自らの真影(絵像)を写すことを許している。この真影が出来上がるまでの四ケ月余りの間に、聖人は『選択集』を綿密に学び尽くしたと考えられる。その真影が完成した時、その 『選択集』 に書写を許した証しに、法然から書いてもらった大事な「釈の綽空」の名を、聖人の方から言い出して、改めてもらっている。それは源「空」の『選択集』の中で道「綽」の名で明らかにされている「立教開宗」という仕事は、誰も代わってできるものではなく法然(源空)上人だけの仕事であることに気づいたからではないかと、考えている。それまでなかった「浄土宗」という宗を開き、寄る辺とすべき「三経一論」の教を立てたことを指している。この「綽空」に替わって、書き入れてもらった名こそ「善信」であったのである。この名は、聖人十九歳の時に見た夢に由来し、生涯大事にしてきた生きる姿勢そのものであった。それを『選択集』を授けられる名、つまり師教を受け取る名としたわけである。

流罪の地 居多が浜
  ところが、この大事な名を罪名「よしざね」と使われてしまったのである。これを受け入れることはできないし、また「ぜんしん」を止めることも、変更するわけにもいかない。そこで聖人は、新しい名をもう一つ名告ることにした。それが「親鷲」という名なのである。「親鷲」とは、法然が「一論」と位置付けた 『浄土論』 を書いたインドの「天親」(てんじん)と、それを註釈した中国の「曇鷲」(どんらん)の一字から付けた名である。そう名告った時から、「三経」の広説に当る『選択集』に対して、「一論」に当る 『教行信証』 を起筆しようとされた。正に師教に応答していく名である。これ以降聖人は、この「善信」と「親鷲」の二つの名を生きていくのである。
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