以前、京都に住む知人から次のような指摘をされたことがあります。
「私の勤めている会社に上越から赴任して来た人がいたが、その人に親鷲聖人のことや御流罪のことを尋ねても、ほとんど解っていない様子だった。聖人に縁の深い地であることを上越の人達は誇りに思わないのか。」と、
因みにこの上越出身の人は「自分の家は浄土真宗です」と明言していたそうです。
この指摘はそのまま私の中で「おまえの門徒教化は一体どうなっているんだ」
という厳しい問いに置き換えられました。
親鷲聖人が「いなかのひとびと」「われら」という言葉で表現される人達と最初に出遇ったのは、まぎれもなく御流罪の地、越後においてであります。
広瀬杲先生は「親鷲が生涯共に生きた、いなかのひとびとこそは、親鷲自身が全身を挙げてうなずき、弾圧を通して確認した法然の教えこそ、仏教の真実を具現しているのだということを証明してくれた人々だった」(『親鷲教学』50号)と押えています。
比叡山を下り、法然上人の教えの下で人生の諸問題が一つ一つ解かれていく法悦に浸っていたであろう吉水時代から一転、越後流罪という逆境に立たされた親鸞聖人は、その法悦の内容が、心地よい京都の地においてではなく、荒涼とした大地で厳しい生活を余儀なくされている「いなかのひとびと」の上に証(あか)されることを、同じ大地に立って初めて感得したということでしょう。
親鷲聖人にとって流罪は不当な弾圧以外の何ものでもなかったかもしれませんが、逆に流罪なくして私達は「いなかのひとびと」の大地で具現化された絶対平等の宗教(真宗)に出遇うことが出来なかったでしょう。
適切な表現が見当たりませんが、この「いなかのひとびと」こそ、この地に生きる私達の祖先であり「ひとびと」の念仏の僧伽(さんが)としての願いは八百年の時を超えて私達の中に生き続けていると言うことができます。そしてこの地に生きる我々だからこそ、時代に即して主体的に(内外に)発信できることを探り、展開し続けて行くことが求められているのではないでしょうか。御流罪八百年を単なる一通過点に済ませることなく・・・・。
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