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流罪800年 −禁じられた念仏− |
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| 大阪教区 南溟寺住職 |
戸次 公正(べっき こうしょう) |
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あなたは親鷲さまのご旧跡といえば何処(どこ)を想われるでしょうか。私は賀茂川(かもがわ)をまっ先に想います。ご遺言とされる「某(それがし) 親鷲閉眼(しんらんへいがん)せば賀茂川にいれて魚(うお)にあたうべし」(『改邪鈔』十六)があるから。そして承元(じょうげん)の法難(ほうなん)によって、賀茂川の辺(ほとり)で斬首(ざんしゅ)された安楽(あんらく)らに想いを馳(は)せるからです。
それは1207(承元一)年、念仏の同朋が捕えられ、法然上人・親鷲聖人ら七名が流罪に、
住蓮(じゅうれん)・安楽ら四名が死罪となりました。
一体、なぜ専修念仏(せんじゅねんぶつ)がとがめられ、無辜(むこ)で罪科となったのか?その因縁(いんねん)を紐解(ひもと)いてみましょう。
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| ・法然の教えと反響 |
法然の教えは、いろいろな修行を捨てて、ただひたすらに念仏を称(とな)えることで本願(ほんがん)のくに浄土(じょうど)に救われるというものでした。それは暗闇に掲げられた矩(たいまつ)となり、あらゆる階層の人々に受け入れられていきました。
しかし、比叡山や奈良の伝統的仏教の僧侶たちは法然の教えを危険視しました。専修念仏は仏教ではない、流行すると世間の秩序が乱れ国家の安泰をおびやかす。朝廷は念仏を禁止せよと訴えるようになりました。それでも法然のもとには関白・九条兼実(かねざね)も参っており念仏禁止にまでは及びません。ところが、ここにかっこうの事件が起こったのです。
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| ・鹿ヶ谷(ししがだに)因縁談 |
法然の弟子に安楽と住蓮がいました。二人はもとは武士ですが、法然の説法に遇い、修羅(しゅら)の武士道を棄てて出家したのです。いらい二人は東山鹿ヶ谷(ししがだに)に庵(いおり)を結び念仏を唱導(しょうどう)しておりました。二人の声明(しょうみょう)には聴く人の魂を揺さぶる哀婉雅亮(あいえんがりょう)の響きがあったといわれます。
頃は1206(建永一)年の夏、鹿ヶ谷で「別時念仏」(べつじねんぶつ)法会(ほうえ)が催されることになりました。そこで「六時礼讃」(ろくじらいさん)という昼夜六時にわたる儀式が勤修される、法然上人の説法もある、というので当日は大勢の老若男女が集まってきました。その中には後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に仕える松虫(まつむし)と鈴虫(すずむし)という二人の女官も混っておりました。二人は法然の説法に随喜(ずいき)感嘆して御所に帰り、それからはいつかわれらも出家したいものと打ち明け合うようになりました。
その年も暮れる師走19日、後鳥羽上皇は紀州熊野神社へ参詣するため暫(しばら)く留守になりました。まさに時節到来と、26日夜中に松虫と鈴虫は闇にまぎれて御所を忍び出(い)で、鹿ヶ谷の庵に住蓮・安楽を訪ね、出家の儀を願ったのでした。何とか思いとどまらせようとの説得にも応じぬ二人の決意の固さにつき動かされた住蓮と安楽は、ついに両名を剃髪(ていはつ)し法名を授けました。そして、松虫・鈴虫はそのまま何処(いずこ)ともなく姿を消したのでした。 |
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