高田別院だより 2007年3月10日 第14号
流罪800年 −禁じられた念仏−
大阪教区 南溟寺住職  戸次 公正(べっき こうしょう)
・念仏の禁止
 正月16日、帰京した後鳥羽上皇は嘆き怒りますが二人の消息は不明のまま。やがて京の街雀(まちすずめ)たちの噂で、法然の弟子たちのしわざと、ある事ないことが醜聞(スキャンダル)として捏造(ねつぞう)されて朝廷にも聞こえます。これが契機となり「念仏停止(ちょうじ)」から法然・親鷲たちへの罪科へと事態が動き出します。

・首のとぶような念仏
 1207年2月9日の朝、安楽は牢獄から御所に連行され、後鳥羽上皇の前に坐らされました。安楽は臆(おく)することなく、善導(ぜんどう)の『法事讃』(ほうじさん)の偈文(げもん)を朗唱しました。(『御消息集』広本九・十)

 「五濁」(ごじょく)の世には、仏道を修するを見て怒りを抱き、方便(てだて)をはかって破壊し、怨みをつのらせるような、無明(むみょう)なる真実を見ることができない輩(やから)がある。浄土の教えを滅(ほろぼ)さん者は、長く三途(さんず)の苦海に沈み救われることがない」 

 上皇はいよいよ逆鱗(げきりん)し、安楽は賀茂川の辺、六条河原へと引き出され、群集が見守る中で、静かにナムアミダブツを称えて首を打たれました。住蓮も、その日のうちに近江国馬淵(おうみのくにまぶち)で首を斬られました。

 法然と親鷲も囚(とら)われの身となり、還俗(げんぞく)させられ、師と弟子は四国土佐(とさ)(実際は讃岐(さぬき))と越後国国府(こくふ)へと流罪となったのであります。

 親鷲は『教行信証』にこの事件を記録し、天皇とその臣下を告発しています。だが決して怨念(おんねん)を抱き続けたのではありません。その書の「行巻」には「正信偈」が添えられています。それは念仏の真実が記憶の闇からよみがえり、うたい継がれていくようにと願いをこめて作られた寿(いのち)と光の讃歌なのです。

 この物語は「首のとぶような念仏」として民衆、門徒の間で語りつがれてきました。

 あたかも2007年は死罪・流罪の法難からちょうど800年目に当たります。

<参考>
  ※いま、滋賀県近江八幡市の千僧供町の田んぼの中に「住蓮房安楽房御墓所」がある。
  ※住蓮山安楽寺は、京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町にあり、この物語にちなんだ史料や墓石が保存されている。

電話: 075-771-5360
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