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赤倉ホテルと有縁講(うえんこう) 〜 有縁講五十年を迎えて 〜 |
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平井ショウ氏 (前列左)
(慶応元年1月1日 岐阜県に生まれる) |
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「お寺参りを続けさせてくれるなら」と、十七歳で東京の将校のもとへ平井ショウさんは嫁いだ。静枝さん(後の赤倉ホテル社長)が生まれた後」築地の本願寺や浅草の本願寺へお説教を聞きに通う日々が始まる。日和下駄は前屈みで歩きやすいように前の歯を低くした。聞法の生活の中、いずれ留学をしたいと、英語も習う先駆的な女性でもあった。
八十二歳を迎えたショウさんは、娘、静枝さんの嫁ぎ先である赤倉ホテルへ疎開する。しかし、赤倉にはお寺が無く、教えを聞きに出かけることができなかった。
高田中学(現高田高校)へ通っていた孫の厚文さんから、、高田別院で「おたや」(報恩講)が勤まることを聞き、さっそく出かけることとなった。子どもたちも出店が楽しみで一緒に出かけることもあった。 |
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| ロビーにある御内仏を中心に、毎年「有縁講」が開催される。 |
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当時高田別院では、宿泊をし、報恩講をお参りをする方が多くおられた。そこでショウさんは本覚坊前坊守、波多野矢尾さんと出遇う。一つの布団を分け合い、二人はお参りを続けた。
戦後直ぐの食糧難の時代であったが、波多野さんはショウさんを寺に温かく迎えた。ある年の十二月三十一日は吹雪であった。
澳(おき)の吹雪は横殴りになる。矢尾さんは帰るショウさんをバス停まで見送ろうと一緒に歩いた。突然ショウさんは歩みを止め「なまんだぶ、なまんだぶ・・・寒くともたもとに入れよ西の風、弥陀の国より吹くと思えば」と傘をすぼめ、西に向かって手を合わせた。
ショウさんは直江津へも出かけた。目当てのお寺があるわけではない。たまたまお参りの帰りであった林正寺、古海香雲住職が歩いているのを見かけた。後をつけると、報恩講の餅つきで賑わっていた。「あなたどこから来なった」「赤倉からです」「遠いところご苦労様。さあ上がってお茶でも・・・」。
以来、住職のお説教を聞きにショウさんは通った。お礼にと境内の草取りを心がけた。
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| 参加者は年間5,000名を数える |
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赤倉ホテルからショウさんはたびたび外出した。誰に相談することもなく、駅までの五キロを歩き、あとは汽車を使ってお説教を聞きに出かけたのである。「聖人さまは暑い日も寒い日も歩かれた。」と雪の日も歩いて出かけた。お説教の続ぎを聞きたくて、説教者の後を追い、寺を巡り一ケ月以上戻らないこともあり、行き先が分からず、迎えに行く厚文さんを困らせることもあった。 昭和三十二年八月二十五日、ショウさんは九十五歳で浄土へ還られた。家族の「おあさじ」を布団の中で一緒に勤め、その声が途絶え往生を迎えたのであった。
赤倉ホテルへお花の指導に来ておられた照行寺、北條義宗住職に静枝さんは、母の生前受けたご恩をどのようにしてお返ししたらよいかを相談した。
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温泉は有縁講に因んで「有縁の湯」名付けられた。
字: 北條幽宗氏 絵: 高井進氏 |
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生前ショウさんは静枝さんにお念仏のことも教えのことも何も語らなかった。しかし静枝さんにはお念仏がショウさんにとってどれだけ大切なものであったかは良く伝わっていた。「赤倉ホテルには仏間がある。それに渾々と湧く温泉がある。お世話になった人を招待したい」。
北條住職の勧めもあり、ショウさんの三回忌を縁に、縁(ゆかり)のある本覚坊、林正寺、照行寺、明専寺(村越家手次寺院)の四ケ寺を幹事寺として第一回の「有縁講」が昭和三十四年にはじまった。
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| 食事と演芸も有縁講の楽しみの一つである。 |
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以来今年で五十年を迎える。現在では参加寺院百五十。参加者は全国から毎年五千名を迎える。毎年参加する人も多く、参加者同士の交流も生まれている。持参する米一升は「一生法を聞く」に因(ちな)んでいる。読経(おつとめ)・法話と続き、夕食では演芸を楽しむことができる。これも「お世話になった方に楽しんでいってもらいたい」という静枝社長の発案である。
孫の厚文会長は「有縁講は平井ショウの皆様への感謝の気持ちからはじまりました。
親鸞聖人が流罪になられた地であることを有縁講を通じてお知りになる参加者もいらっしゃいます。
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| 右から、長崎政美専務 ・ 村越厚文会長 ・ 村越昭文社長夫妻 |
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この地から浄土真宗がはじまったとも言われております。平井ショウを縁としてこれからも法灯を護らせていただきたい」と五十年を迎えての気持ちを語った。
赤倉ホテルのロビーは仏間となっている。全国から御旧跡参拝者をお迎えし、毎日読経が絶えることはない。
(藤原 記)
有縁講は十一月から始まります。参加御希望の方はお手次寺院へお尋ねください。 |
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