高田別院だより 2009年3月15日 第18号
流罪から出発した親鸞(第一回)
大阪教区 南溟寺住職  戸次 公正(べっき こうしょう)
・流罪に始まる名のり   
 承元(じょうげん)の法難(ほうなん)(一二〇七年)で専修(せんじゅ)念仏が禁止され、住蓮と安楽ら四名が死罪となった。
法然と親鸞は流罪となった。親鸞三十五歳の時である。親鸞には藤井善信(よしざね)という俗名がつけられた。この時から親鸞は「僧に非ず俗に非ず」と自らを位置付けた。そして初めて「愚禿釋親鷲(ぐとくじゃくしんらん)」を名のったのである。

 法難に対しては、天皇とその臣下による仏教への破壊行為と、仏法者を自認する聖道門による不当な弾圧を厳しく告発する文を認(したた)めた。『教行信証』の後序はそこかち始まる。

 京都から遠く離れた越後の国に流された親鸞は、三十九歳までその地で罪人として生活した。

・群萌の大地で
 親鸞は越後で新たな出会いをした。厳しい自然の中を生きる人々の営みは、都とはまったく異なるものであった。
一人ひとりがおのれの命をつなぐことさえ困難な現実があった。 
貧しい土地を耕して細々(ほそぼそ)と生きる農民は「結(ゆい)」という共同体を作って相互に助け合いながら暮らしていた。また、日本海の荒波に生きる漁師たち、信濃川や阿賀野川など河川や湖沼に生きる「渡(わた)り」と呼ばれる船のりたちがいた。
あるいは、山地で猟師や木こりや鉱夫をする人々がいた。名もない民衆のまさに群萌(ぐんもう)の大地がそこにはあった。 親鸞がここへ来て最初にしたことは何だったのか。それはまず「聞く」ことであったにちがいない。
言葉の通じない世界で生きていくには、何よりもその土地の人々の生(なま)の声に耳を傾け、その昔(ね)を聴きとり、会話ができるようになる。そこから始めたのではないか。

 それはまさに「仏願(ぶつがん)の生起本末(しょうきほんまつ)」を聞くという真宗の教えと学びの土台を構築する基礎工事であったろうと想像する。

・女性と共に
 親鸞は結婚していた。妻の名はは恵信尼(えしんに)。彼女とはすでに京都で邂逅(かいこう)していた。
それは恵信尼が娘に宛てた手紙の中で、二十九歳の親鸞が六角堂に参籠していたことや、法然のもとへ熱心に通っていたことをまのあたり回想しているからである。

二人の間には子どもが生まれていた。
でも、今までは親鸞が結婚したのは越後に来てからのことだとされてきた。

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