いよいよ来年三月から、「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」が勤まります。教区では、二年前から御遠忌実行委員会を立ち上げ、御遠忌に向けて準備を進めてまいりました。
今回表題とさせていただきましたのは、三年前にお勤めした「宗祖親鸞聖人越後御流罪八百年法要」から見出されてきた教区テーマです。
私たちが宗祖と仰ぐ親鸞聖人とは、どういう方でしょうか。私たちは「御流罪八百年」を通して学んでまいりました。
宗祖は法然上人を師と仰ぎ、どんな人も「ただ念仏ひとつ」によって等しく救われていく南無阿弥陀仏の道を歩み出されました。その宗祖の上におきた大事件が「承元の法難」(じょうげんのほうなん)です。四人が死罪、法然上人をはじめとして八人が流罪という大弾圧でした。
越後での流罪生活の中で、宗祖は富や権力などとはまったく無縁に、人間としての命を赤裸々に生きている人々と出遇い、正(まさ)しく本願に救われるべき人々(本願の正機)を確信されたのでありましょう。
今、私たちには「南無阿弥陀仏」が届けられています。これは誰から頂いたのでしょうか。親・祖父母、あるいは近所のお年寄りからでしょうか。いずれにしろ私たちの信頼する、身近な方がお念仏する姿・声を通して頂かれたものなのでしょう。それでは、その方は誰からお念仏を頂いたのでしょうか。やはり、身近な人々を通してでしょう。そうしてずうっと遡(さかのぼ)っていくと、五百年前の蓮如上人に辿(たど)り着き、そして親鸞聖人にまで辿(たど)る事が出来ます。
さらには法然(ほうねん) → 源信(げんしん) → 善導(ぜんどう) → 道綽(どうしゃく) → 曇鸞(どんらん) → 天親・龍樹(てんじん・りゅうじゅ) → 釈迦(しゃか) → 法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)へと辿る事が出来ます。この念仏の伝統が『正信念仏偈(正信偈)』となって、七百五十年を経て、今、私たちに手渡されているのです。
御遠忌をお勤めするという事は、「遠い京都で、誰かがお勤めする」ひとごとではありません。宗祖のお念仏をいただいた私達門徒一人ひとりが、その教えの前に身を据え、本当に真宗門徒と言える生き方をしているかどうか、「私はどこで生きているのか」というテーマを私なりに受け止めれば、「どういう時代社会の中で、何を自らの立脚地とし、どういう方向性を持って生きているのか」を、我が身に問い返してみなければなりません。
流罪から「愚禿釋親鸞」と名告り、再出発していかれた宗祖を仰ぎ、私たちも新たな出発が求められているのでしょう。
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