「私はどこで生きているのか」
〜たずねよう 真宗の教えに〜 |
|
|
|
 |
山門修復調査で確認された3枚の棟札。
中央に「達如上人光朗前大僧正願主文政十(1827)年丁亥(ひのとのい)
四月十八日上棟」とある。右には棟梁竹澤志摩則行の名。
左は昭和十五年御修復の棟札。山門最上部に現存。 |
|
|
表題は、このたびの高田教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマです。真宗の教え−親鸞聖人が聞き開かれた念仏往生の教えに「私はどこで生きているのか」を共に聞きたずねようということだと思います。
さて、「どこで」ということを捉え直せば、「どのような立場に立って」とも言えると思います。私たちは家族の中での立場、会社での、地域でのという具合に様々な社会的立場に立っています。さらにそこで自分が悠々と立てるように、善いことを一生懸命やっていくというような「善い人間の立場」にも立っています。社会的立場は様々でも、内心的には「善い人間の立場」に立とうと生きているのではないでしょうか。
「善い人間の立場」に立つために、道徳や倫理が様々なことを教えてくれています。例えば「相手の気持ちを考えて」ということ。人と人が接する社会では、他人の事を思いやることは大切なことです。しかし、仏教の教えは自覚です。本当に相手の気持ちを考えることができるのかと。毎日接している一番身近な家族でさえ、相手の気持ちが分からず、喧嘩になったり塞(ふさ)ぎ込(こ)んだり。右往左往して迷い惑っている。決して相手の気持ちを考えることのできるような「善い人間の立場」に立てないのが、私たちの姿ではないでしょうか。
このように「善い人間の立場」に立てずに迷い惑っている私を赤裸々な姿として頷(うなず)く。その頷かれた我が身を「凡夫の身」とか「そくばくの業をもちける身(限られた知識や経験で「善い」ということを決め付け、自らがそれで縛られる生き方)」というのであるとお聞きしています。このような救われがたい私たちを親鸞聖人は自らを引き合いに出され
されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ(『歎異抄』)
と仰せられます。「『善い人間の立場』を閣(さしお)き、『凡夫の身』に立ち帰れ。その身をたすけんとする如来の本願を知れ」と。そう促し続ける念仏の声を聞きたずねたいと思います。 |
|
|
|
 |
|
| 教如上人と高田の大谷派寺院(第二回) |
|
第十一組 輪鳳寺 太田 空賢 |
|
|
慶長三(一五九八)年には、教如と対立していた母親如春尼と、教如に隠退を命じた秀吉が没しました。
教如には、政治状況を先読みする力があったようです。秀吉亡き後の天下人は家康であろうと読み、意欲的に接近しました。家康もまた、教如を認め味方にしようとしました。
慶長五(一六〇〇)年九月、徳川家康が関ケ原の合戦に勝った直後から、家康と教如が頻繁に会見するようになりました。
そして慶長七年二月に家康が寺地を寄進し、そこに教如が東本願寺を創立しました。
教如の家庭生活については、その時代性も影響し、政略的な結婚もあるなど、複雑であり、わかっていない面も多くあります。
教如は四回結婚しており、十三人の子供(三男・十女)がありました。
最初の妻は、越前(福井県)の朝倉義景(よしかげ)の娘三位殿(さんみどの)で、一女があったことだけわかっています。
次の妻は、公家の久我通堅(みちかた)の娘ということだけわかっております。
三人目の妻は、教寿院といい、二男・七女がありましたが、二男・一女は早く亡くなりました。
四番目の妻は妙玄院(みょうげんいん)といい、一男・二女がありました。
教如は慶長十九(一六一四)年に五七歳で亡くなりました。
教寿院との間にできた二男が既に亡くなっていましたので、妙玄院との間にできた一人息子長麿が、わずか十一歳で後を継ぎ、十三世宣如となりました。
宣如と父母を同じくする姉と妹、いわゆる教如と妙玄院の娘は、二人とも高田に嫁ぎました。
姉の光暁院(こうぎょういん)(教如の九女)は、何年かはわかりませんが、浄輿寺十六世教善に嫁ぎました。妹の玄耀院 (げんよういん)(同十女)は、慶長十(一六〇五)年、本誓寺十二世宣英に嫁ぎました。
このことは、教如が高田を中心とする頸城、そして越後を重視していたことを示すものと言えるでしょう。
そして、それにはそれなりの歴史があったからだと考えられます。
十一年に及ぶ、本願寺門徒と織田信長との間で戦われた石山合戟について、先回触れました。
その戦いを支えるため、頸城の教団が多くの軍資金や兵糧米(ひょうろうまい)を送っていました。信長と対抗していた越後の大名上杉景勝と、浄輿寺や本誓寺を中心とした頸城の教団が連携していたのです。
この頸城の地から大坂まで出て行き、実際に戦いに参加した、という伝承をもつ寺もあります。その一例として、妙高市吉木の専念寺があります。
その寺伝によると、九世明順(みょうじゅん)は、天正二(一五七四)年三月の戦いに参加し、石山本願寺南門の大将をつとめ、大変勇猛な戟いぶりであったということです。
そしてその戦功により、顕如の御影(ごえい)・鎧通(よろいどうし)・硯箱(すずりばこ)が下付されました。また、その戦いぶりから、「勇猛山」を山号とすることをゆるされたと伝えられています。
珍しい山号ですが、その時代と教団の歴史を象徴していると言えるでしょう。
教如が隠退した後も、門主の立場で活動していたことも先回触れました。
高田教区内にも、教如が門主の立場で下付した絵像が多くの寺に伝えられています。
例をあげると、文禄五(一五九六)年に親鸞像を上越市安塚区小黒の専敬寺へ、慶長二(一五九七)年に顕如像を下野田の本覚坊・三和区田の称名寺へ、慶長七年に蓮如像を三和区本郷の西勝寺へ、慶長八年に教如寿像(生存中の絵像)を浦川原区飯室の本教寺へ、それぞれ下付されたものなどです。
教如とこの地域との関係について述べてきましたが、教如がこの地を重視したその根底には、ここが親鸞聖人の流罪の地であり、教団発祥の地であるということがあったと思われます。
(了) |
 |
| 鎧通 (妙高市吉木・専念寺蔵) |
|
 |
| 硯箱 (妙高市吉木・専念寺蔵) |
|
|
|
|
|
|
| 本山(東本願寺)御正忌報恩講に参詣して |
|
第二組 善正寺門徒 恩田 良則 |
|
 |
第二組推進員連絡協議会研修の一環として、本山の報恩講に参詣できたことは私にとって初めての体験でした。参詣の前日は宿坊であったと聞いているお花坊に泊まり、夕食会のおり、翌日の報恩講について話し合いとなった。私は日頃より疑問に思っていた坂東曲(ばんどうぶし)について組長に聞きました。
「外陣のお坊さん約七〇名位が体を力強く前後左右に動かして拍子をとりながら勤める、大変ダイナミックな声明なんだよ」、と話してくれました。組長は、「明日、本山の報恩講にお勤めするため、明朝五時に起床するから皆さんと一緒になるのは十二時半頃になる」と言っていた。
当日、私達第二組団参は八時二十分頃、御影堂に入った。既に数百名参集しており、私達は中間より、やや前に着席しました。九時頃になると御影堂は満堂となり熱気にあふれている。巻戸がはずされ秋のさわやかな風が堂内に流れ込むなか、雅楽が始まり、内陣にお坊さんが入場してきた。突然、誰かが「あっ組長が入場したよ」と言った。遠くから見ていても見おぼえのある人は目につくんだと思った。引続き外陣のお坊さん、七〇数名そろった。おごそかにお勤めが始まった。中間の柱に設置されたモニターを見ている私である。突然、内陣に向かって左手前のお坊さん(鍵役)(カギヤク)が大きく体を前後左右に動かしながら調声が始まった。場内放送により坂東曲であることが知らされた。外陣のお坊さんが一斉に力強く体を振った。畳におでこがあたるのではないかと思われるほど大胆な動きである。モニターを見たり背伸びして内陣を見たりして足のしびれを忘れる程、夢中で参詣している私でした。来てよかったとつくづく感じました。
私は十六年前に住職に勧められて推進員養成講座を受け、本山での後期講習の中で帰敬式終了後、宗祖親鸞聖人の御前での誓いの言葉を時々思い出しながら、お内仏の給仕を始めお寺の行事や組の研修会等に全て参加するよう心がけております。
今後は真宗同朋会運動の教化活動に全力をつくし、一人でも多くお寺の行事等に参加するよう、とりあえず電話などで呼びかけたいと考えております。
合掌 |
|
|
|
|
|
|
|
昨年十一月浄國寺・法林寺両寺院様主催の旅行に三十一名中の一員として参加した。
一日目、先ず名古屋別院へ。丁度一如上人の法要が営まれており多くの参拝者と共にご法話を聴く事が出来た。次は金鯱がシンボルの名古屋城。好天に恵まれ天守閣から市内を眺望し、菊花展にも心が和む。一泊目は名古屋国際ホテル。三々五々買物、夕食を楽しむ。
二日目、以前浄國寺様よりお聞きしていた清沢満之記念館・西方寺へ。今日私達が親鸞の教えに出遇う道を開かれた先生の一生涯の話、書斎や終焉の部屋等を見、改めて自己とは何かを考えさせられる。その後徳川美術館へ。先に館内の宝善亭でちょっと贅沢な昼食を満喫。美術館では茶道具等歴史的名品の数々を観られ大満足。惜しむらくは短時間だった事。もう少しゆっくり鑑賞していたかったなァ! 日本三大観音の一つともいわれる大須観音では商店街をよく歩いた。夜は長良川温泉で疲れを癒し大宴会。二次会に、柳ケ瀬飲食街へ出かけた人達もあり、留守番組には分からない面白い秘話があるらしい。
三日目、和紙とうだつの上がる町並の美濃市。宗祗水や踊りで有名な城下町郡上八幡。どちらも現地のボランティアガイドさんの案内で、ついに降り出した雨の中を散策見学。旅の最後は南砺市へ。道中飛騨の峠一体は雪となりドライバーさんはチェーンの脱着等で大変だったが、車中では紅葉と白銀の美しい景色に一同歓声をあげた。到着した光徳寺では蓮如上人御自作の阿弥陀彿(御厨子の内)にお参り。棟方志功、他民芸巨匠作品、世界の珍しい民芸品コレクションに接し眼を見張る。
十二月雪の日、法林寺様宅での反省会。旅の名場面を大スクリーンで見ながら歓談した。
この度は沢山の発見や体験、素敵な方々との出逢い等とても有意義な旅だった。お骨折り下さった両寺院様に深謝申し上げたい。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| ●高田別院親鸞教室 |
| 『歎異抄』に学ぶ |
| 日時 |
毎月十二日 (三月から十二月) |
| 午後一時三〇分 |
| 講師 |
豊島 信氏 (六組西光寺) |
| 会場 |
高田別院本堂 |
| テキスト |
『歎異抄』東本願寺出版 |
|
| ●親鸞聖人ご命日の集い |
| 日時 |
毎月二十七日 午後一時三十分 |
| 会場 |
高田別院本堂 |
| 講師 |
| 3月 |
松浦 彰英氏 |
|
|
|
|
4月 |
千名琢爾氏 |
| 5月 |
大場正信氏 |
|
|
|
|
6月 |
教務所々員 |
| 7月 |
上宮 崇氏 |
|
|
|
|
8月 |
喜多山恵邦氏 |
| 9月 |
淀野壮介氏 |
|
|
|
|
10月 |
内山真明氏 |
| 11月 |
山越英隆氏 |
|
|
|
|
12月 |
礪波康範氏 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 4月3日(水)〜5日(金) |
教如上人四百回忌法要参詣 |
| 4月10日(水) |
別院奉仕研修 岩崎 修氏 |
| 4月13日(土)〜14日(日) |
高田別院「春の法要」 |
| 8月5日(月) |
暁天講座 |
| 8月6日(火) |
不戦平和の誓いの鐘 |
| 10月11日(金)〜14日(月) |
高田別院「報恩講」 |
| 11月上旬 |
有縁講 (高田別院引率) |
| 11月27日(水)〜29日(金) |
真宗本廟(東本願寺) 御正忌報恩講団体参拝 |
お問い合わせは高田別院まで 025-523-2465 |
|
|
|
|
|
| ◎高田別院 「春の法要」ご案内 |
|
2013年4月13日(土) 〜 14日(日) |
|
| 13日(土) |
9時30分 |
高田大谷保育園釈尊降誕会(お花まつり) |
| 13時 |
碑前法要 |
| 13時30分 |
東日本大震災追弔法要 |
公開講演会 東舘紹見氏(大谷大学准教授)
講題 「いのちと光に出遇う」 −3・11から今日までの想い− |
【講演に寄せて】
一昨年の3月に起こった東北地方太平洋沖地震・津波によって、私の所属寺のある岩手県宮古市も、まさ筆舌に尽くしがたい状況におちいりました。現在は、全国の皆さんのご支援により、復興に向けて歩みが進められていますが、今もなお様々な面で非常に厳しい状況が続いています。また、福島の原発事故をめぐる深刻な状況も、今さら申し上げるまでもございません。
この度の地震・津波によって、私たちは、多くの大切なことを改めて知らされたのではないでしょうか。それらのことを、今日までの歩みを振り返りながら、ご一緒に確かめさせていただければと願っております。
東舘紹見 |
| 14日(日) |
9時30分 |
納骨堂法要 |
| 10時 |
納骨者追弔永代経法要併修
全戦没者追弔法要 |
| 13時30分 |
宗祖親鸞聖人御誕生会音楽法要 法話(午前・午後) 太田空賢氏(輪凰寺住職)
講題 教如上人と高田の大谷派寺院 |
|
|
|
|
|
|
| 編集後記 |
長かった冬の夜、床に就くまでのひとときを、従兄弟の句集で楽しんでいる。彼の妻や亡き伯母、盛んだった頃の義父の姿が生き生きと描かれているからだ。毎回「プッ」と吹き出してしまう。楽しんだ後、「今夜もおしまい」と、繰るページは
己れ生くことの不思議さ大銀河
暖かくなったら夜空を見上げ、生きている不思議、死んで往く不思議を感じよう−と想う。もうすぐ春だ。
(厚) |
|
|