高田別院だより 2005年3月15日 第10号
宗祖と越後@ (2)弾圧
第十三組 浄泉寺  井上 円
 ところが、聖人がこれだけは忘れてもらっては困ると考え、後の世に積極的に伝えようとされた事柄がいくつかある。
 その一つが、承元一年(一二〇七)二月に起こった専修(せんじゅ)念仏弾圧の事件の短い記録である。当時法然上人は、東山吉水(よしみず)等にあって、訪ねて来る「善き人にも悪しきも、同じように生死出ずべきみち」として専修念仏の教えを一筋に説いていた。親鸞聖人も、そこに集まってくる多くの人達と共に教えを聞き続けていた。法然上人は、諸宗の中に押し込められていた念仏を開放し、専修念仏を立てて浄土宗を独立せしめようとしていた。その願いとするところは、難行苦行を誇り、特別な人だけの救いを説く諸宗に選んで、救いを求める多くの凡夫が、平等に救われる易行の念仏の道を明らかにしようとしたのである。

 しかし、比叡山や奈良の諸宗からは、専修念仏のみを立て諸宗をおとしめるのは「偏執である」との批難が浴びせられた。ついに興福寺から「前代未聞の八宗同心の訴訟」が朝廷に正式に提出された。元久二年(一二〇五)十月のことである。身分の隔てなく多くの群集を引きつける法然の専修念仏を脅威に感じ、これまで日本の国を支えた八宗こそが真の仏教であると主張して、世俗の権力に向かってこれを問い、「偏執の過(あやまち)」のある法然とその弟子に罪科を加え、専修念仏の教えを停止するよう訴えた。

 朝廷では、この訴状の扱いに困り、訴えの趣旨にかなう解答がなかったことに対し、興福寺側が承服せず、翌年更に強硬に訴え出た。その後、方針が滞る状態の中、建永一年(一二〇六)十二月、後鳥羽上皇の留守中、院の女房達が、法然門下の住蓮・安楽の催す念仏法要に参加をして、帰らずにそのまま出家(しゅっけ)してしまったのである。私は念仏の教えに触れて、虚飾の宮中から逃れたのではないかと想像しているが、これは密通事件としてうわさされ、これが直接の原因とされている。上皇は逆鱗の余りに、きちんとした手続きもないまま、四人の死罪、法然上人以下八人の遠流(おんる)という処断を決定し、専修念仏禁止令が出された。
親鸞聖人は、これを、

 「主上臣下(しゅしょうしんか)、法に背(そむ)き義に違(い)し、忿(いかり)を成し怨(うらみ)を結ぶ。これに因って、 真宗興隆(こうりゅう)の大祖源空法師(たいそげんくうほっし)、並びに門徒数輩(もんとすはい)、罪科(ざいか)を 考えず、猥(みだ)りがわしく死罪に坐(つみ)す。あるいは僧儀(そうぎ)を改めて姓名(しょうみょう)を賜(たも)うて、遠流(おんる)に処す。余(よ)はその一なり。」『真宗聖典三九八頁』

と、短く厳しい言葉で、抗議している。これによって、親鸞聖人の越後流罪が行われた。時に聖人三十五歳の春のことである。

冬の居多ケ浜と碑
もし、流刑(るけい)に処せられたまわずは、われまた配所に赴かんや、もしわれ配所におもむかずは、何によりてか辺鄙(へんぴ)の群類を化せん、これ猶師教の恩致なり
『御伝鈔』
井上先生には今回を含め、四回に分けて執筆いただきます。
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