
第十三組 浄泉寺 井上円 |
親鷲聖人が、流罪の中でも最も重い「遠流」(おんる)に処せられ、この越後の国についたのは、旧暦の三月の終わり頃、新暦でいえば五月になろうとする頃であった。長い冬を終え、雪も解け、新緑が鮮やかな一年で最も穏やかな時期ではなかったかと想像される。居多ケ浜に上陸したと言い伝えられているから、国境などの険悪な陸路を避けて、木浦から船で海を渡って来られたということである。聖人にとって初めて嗅ぐ潮の香であり、「水路の乗船」であったであろう。
しかし、穏やかな季節もすぐに過ぎて、旧暦九月ともなれば、みぞれが降り出し、雪起こしの雷と共に、半年も続く豪雪の中を過ごすこととなった。さらに翌年には天候不順で貢納ができないと国司が上申している程である。京都では考えられない苛酷な自然条件が聖人を待っていたのである。
その配所国府は一体どこにあったのであろうか。今までに海中埋没説や板倉説などいろいろな説が出されてきた。最近ではやはり居多ケ浜に近い五智周辺であろうとされている。当初住んだ所は「竹ノ内(たけのうち)の草庵」と呼ばれている。この 「竹ノ内」とは、国府の郡司萩原敏景(はぎわらとしかげ)の「館の内(たちのうち)」という意味であり、堀で囲まれた国府一丁目一六(宝持院跡)あたりではないかと、推定されている(市史編さん室たより一八七)。その後手狭な為、「竹ケ前(たけがはな)の草庵」(現国府別院内)に移ったとされている。いずれにせよ、暴風によって海の荒れた時には、荒波の音が、耳から離れなかったはずである。多くの人達が指摘しているように、後に親鷲聖人によって「海」の表現が実に多く使われるのは、海に近い配所国府であったところが大きい。
親鷲聖人は、承元(しようげん)一年(実は建永(けんえい)二年一二〇七)から建暦(けんりゃく)一年(一二一一)赦免になるまでの足掛け五年の配流の生活があり、さらに建保(けんぽう)二年(一二一四)常陸へ旅立つまでの二年余り、計七年間の越後の生活が続いたことになる。 |