聖人の配所が、何故越後国府に決まったのかについては、未だよく分からないのが実情である。しかし、この決定の出る一ケ月程前の一月十三日の臨時の任命で、聖人の伯父の一人 (父有範(ありのり)の兄・養父範綱(のりつな)の弟)の日野宗業(むねなり)が、越後権介に就き、三年余り後の承元四年(一二一〇)十二月二十日まで、この職にあったことが注目されている。当時配所は、関係者の希望が考慮されたと言われているから、この伯父宗業の配慮によって、越後国府の決定がなされたのであろう。中央の貴族が地方の任地に赴くことは稀であったから、宗業が越後権介に就いたからと言って、越後に直接赴いたわけではない。しかし、甥親鷲の流罪が決定的になったことを見越して、越後権介への就任を要望し、国府での聖人の生活に少なからず善い影響を与え、手助けしたことは確かである。
この伯父宗業の越後権介就任によって、萩原敏景とも伝えられている郡司は、いろいろな便宜を計ったと想像される。延喜式(えんぎしき)に依れば、流人には一人一日に米一升と塩一勺とが与えられ、翌年春に種が給付され、秋の収穫に至ると米などの給付が止められた。鍬など持ったこともなかったであろう聖人に、はたして自給自足の労働を強いたかどうか。住居が「竹ノ内」「竹ケ前」とあるから、「館の主人」に多大の援助を得たのではないか。雨露もしのげない流人小屋などに住まわせたとはとても考えにくい。辺境の人から見れば、聖人は中央の文化人であり、臨時ではあっても上司の甥でもある。さらに当代の尊敬の的であった法然上人のお弟子でもあったからである。監視の為だけに近くに住まわせたというよりも、厚く持て成した結果ではないだろうか。
次回にまたふれるが、聖人の妻恵信尼(えしんに)の実家とされる三善(みよし)氏も、大きな支えとなったはずである。三善氏が中央の貴族なのか地方の豪族なのか確定はされていないが、いずれにせよ越後への影響力もあり、領地も所有した可能性が指摘されている。これが後に恵信尼の所領ともなったと考えられている。この三善氏の背景も、聖人の越後での生活を考えた場合、無視することはできない。
もっと踏込んで言えば、聖人自ら自発的に労働に汗を流したが故に、農民・漁民・猟師・商人達と直に接して、これらの人を「われら」と呼べる地平を発見したと考えている。この「われら」の発見こそが、過酷な自然の中の流罪生活を支え、大切にしなければならない世界を見続けさせることになったのである。
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| 国府別院内にある竹ケ前の草庵跡 |
国府別院境内より |
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