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| 居多ケ浜 |
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去る四月八日は高田別院奉仕の日であり、一緒に出かけた方が、「親鷲聖人が生きておられたら、何処までも会いに行きたい、と思うことがある」と何気なく話された。
その時私は「一人いて喜ばは二人と思うべし、二人いて喜ばは三人と思うべし、その一人は親鷲なり。我なくても法は尽きまじ…」(御臨末の御書)(ごりんまつのおんしょ)を思い出し、今日のように奉仕研修に行くことに喜びを感じました。 齢をとったせいでしょうか、時折このようなことを感ずることがあります。
また、親鷲聖人ほど経典や七高僧などの説を自分の身に照らして繰返し読まれた方はいないし、それを九十年の御生涯をかけて、『教行信証』や正信偈に、また御和讃にまとめて著述し、後世のために残してくださった方もいない。
私は最近、深く思うようになったことがあります。それは聖人が越後へ流罪となられたが、もし京都で一生、生活をつづけておられたらどうであったろうか、と。
三十五歳の親鷲聖人(善信坊)が越後へ流罪となり、居多ケ浜へ上陸されてから、迷信深く、貧困にあえいでいる民衆と生活を共にし、その人達から米や野菜づくりを学び、時には広々とした日本海や黄金波うつ越後平野、緑豊かな越後連山を眺めて心をいやし、また冬になれば、怒涛(どとう)さかまく海岸に立ち、はてもなく降り積もる雪原を歩き、吹雪の道を行くこともあったでしょう。
親鷲聖人はこのように生活をし、越後の大地にはぐくまれて、哲理を深めていかれたにちがいありません。恵信尼公との生活も民衆と共にありました。
親鷲聖人の千載(せんざい)に輝く、浄土真宗の教えは、「越後の大地に立ち」「民衆と共にした生活」の中にあってこそ深められていったにちがいありません。また、「愚禿親鷲」と名告られたのも、越後でのことでした。
今、二〇〇七年五月を目指して、御流罪八百年の記念事業が進められていますが、その意義は計り知れないものがあると思います。
この地にある高田教区内の三〇〇ヶ寺の全門徒は力を合わせてこの事業に取り組み、共に聖人の教えに遇うときだと思います。 |