高田別院だより 2006年9月5日 第13号
宗祖と越後C (七)家庭の仏道 妻と子
第十三組 浄泉寺  井上 円

第十三組 浄泉寺 井上円
  親鸞聖人の妻については、古くから一人説・複数説などいろいろな説が提出されている。しかも関白九条兼実(かねざね)の娘玉日(たまひ)の伝説も存在している。今のところ大正十年に西本願寺の宝蔵から発見された『恵信尼消息』によって、恵信尼一人説が、多くの指示を得ているように思う。その出自については、「兵部大輔三善(ひょうぶたいふみよし)為教(ためのり)の娘」とされている。この父は、後に板倉の山寺薬師の薬師と弥陀の二像を造立したと銘のある「三善讃阿(みよしさんあ)」に連なる越後の豪族であるとも、あるいは京の出身であり、九条兼実の家司(けいし)で前越後介(えちごのすけ)三善為則(ためのり)と同一人物であるともいわれる。もし京の三善氏であるならば、「為長(ためなが)・為康(ためやす)・為則(ためのり)」と三代に渡って越後介を勤め、祖父に当るであろう「三善為康」は、自ら『拾遺往生 伝(しゅういおうじょうでん)』『後拾遺往生伝(ごしゅういおうじょうでん)』を編集した浄土往生者であると言う。恵信尼の教養の高さも裏打ちされているが、いずれも未だに決定的ではないように思う。

 しかし、親鸞聖人の流罪が決定した時点で、結婚していたことだけは事実のようである。それは「善信」という実名を罪名の「よしざね」と読み変えられた中に、妻帯した僧を侮辱する意味が込められていることで判明する。
 今の常識では、妻と共に流刑地で生活することは考えられないことであるが、当時の規則では、妻子は流刑地に同道すべきであるとされた。聖人と恵信尼との間には、男女六人の子供が恵まれたといわれている。
その中の信蓮房明信(しんれんぼうみょうしん)が、承元五年(一二一一)三月三日に越後で、末娘の覚信尼(かくしんに)が、元仁一年(一二二四)に関東で生まれたことだけがわかっている。聖人と恵信尼の越後での事跡で、衆人が認めるのは、この信蓮房が生まれたことくらいである。
 罪人の身として妻子と共に生きることには、はかりしれない苦労があったはずである。聖人としては、一人の女性と出遇い、子が生れ、共に育てていくという普通の人間の営み以外に、大乗としての念仏の教えを受け止める場所はないというのが信念ではなかっただろうか。これが「愚禿」と名告った親鸞聖人の具体的な生活であり、後に「いなかのひとびと」を「われら」と呼んでいく仏道の基底なのである。
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