高田別院だより 2006年9月5日 第13号
宗祖と越後C (八)赦免と死別、そして関東へ
第十三組 浄泉寺  井上 円
  承元一年(一二〇七)法然上人は、事件の張本人として「元彦(もとひこ)」という罪名を付けられた。しかし、熱烈な帰依者であり、『選択集』の編集を願った九条兼実の取り計らいがあってか、流刑地土佐には赴かなかった。兼実の所領がある讃岐国(さぬきこく)小松庄(こまつのしょう)にしばらく留まり、その兼実が死去した八ケ月後の十二月八日に許されて、摂津国(せっつこく)勝尾寺(かちおでら)に滞留することとなった。その三年後、信蓮房が生まれた年の建暦一年(一二一一)十一月十七日、老耄(ろうもう)となっていた法然上人の入京が許された時、遠流に処せられていた親鸞聖人達の赦免が行なわれたのである。法然上人は、十一月二十日東山大谷の禅房に入り、そこで二ケ月後の建暦二年(一二一二)一月二十五日になくなっていかれた。時に齢八十歳であった。

夏の居多ケ浜、海水浴でにぎわいます
  この赦免の宣旨と法然上人の死去の知らせは、越後の親鸞聖人の元にもすぐさまもたらされたであろう。京での別れが、永久の別れとなったわけである。この後、伝記や伝承では大きな違いが見られるが、信蓮房が四歳になった建保二年(一二一四)、親鸞聖人の一家は、関東へ移住していく。師を失った悲しみの中で、故郷である京を目指さずに、まだ見ぬ新開の地を選んでいる。その理由も、諸説が提案されている。一家が未知の関東で生き抜けるような生活の保証、例えば迎え入れてくれるような井上善性(いのうえぜんしょう)等の帰依者とか、所領の提供者の可能性が考えられている。これらは皆大切な確認ではあるが、なお関東を目指した聖人の意図ということではないように思う。
恵信尼公御木像 (新井別院蔵)

  法然上人との死別を受けて、「愚禿親鸞」を生きる姿勢にした聖人にあっては、法然上人の遺教(ゆいきょう)に応えていくためではなかったか。それは付属を受けた『選択集』(三部経の解釈)に応答し得る弟子の論に当るものの完成と、その実践の為に東国文化の一つの中心地常陸を目指した。それが『顕浄土真実教行証文類』(『数行信証』)に結実し、「自信教人信(じしんきょうにんしん)」の実践を通して、多くの同朋との共感として華開いたのではないかと受け止めている。
(最後に、この四回の執筆は、多くの先達の業績を元にして、まとめたものであることを申し添えて、擱筆する。)
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