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交声曲「花こぶし」によせて |
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「恵信尼(えしんに)消息を合唱曲に、その歌詞を」という難波別院(なんばべついん)からのお電話に、天に舞う感動を覚えたのは六年前の夏でした。舞わしめたのはその着想の素晴らしさ。やがて我に返り、その大任にそぐわないことに気付き、その足で大阪へ向い、発願者の安谷屋(やすたにや)先生にお断りしました。
「折角ですが、真宗学も真宗史も知らず、古文の理解も覚束(おぼつか)ない素人には無理です」と申し上げますと「私は素人の方にお願いしたいのです」
と短い一言。その真剣さに言葉を失い、気付けばお引き受けしてしまっていました。
「恵信尼消息」は四十年余り昔、大谷大学入学早々、真宗入門で初めてその名を聞き、触(さわ)りをノートしつつ新鮮な驚きを感じ、いつか読んでみたいと思った記憶が蘇りました。思えば不思議な機縁の成熟でした。これまで望みつつ未読だった吉川英治「親鷲」をはじめ、丹羽文雄「親鷲とその妻」また当時新聞連載中の津本陽「弥陀の橋は」等を読み耽(ふけ)りました。大谷大学の細川行信先生から拝借した研究書や史料にも苦手意識を乗越えて向いました。もう十二月になっていました。締切は一月。親鷲聖人と恵信尼さまのご生涯の凡(およ)そが臆気(おぼろげ)ながら掴めただけで詩の一行も湧きません。もうあとは上越の地に立って居多ケ浜の波に聴くほかありません。
居多ケ浜記念堂の林正寺様に思い切って架電、なんとご住職は谷大・原始仏教ゼミの同級生でした。暮のご寺役多用の中、半日を割いて主なご聖跡を案内して下さいました。中でも旧「こぶしの森」は今も胸深く刻まれています。雪に覆われ、大の足跡さえない白一色の境内の佇(たたず)まいに立ちすくみ、その奥の恵信尼さまの五輪塔までを私の靴跡で汚すことが躊蹄されました。
けれどそこで遥拝(ようはい)して戻ることはならず、背を押される様な呼ばれるような催しと、聖地を汚すことの申し訳なさと交々(こもごも)でした。厚く濃緑(こみどり)に苔むした第三石に視線が留まった時、石がもはや石ではなく七百年を生き抜いたいのちあるものとして立っていました。もう一ケ所は聖人が毎日通われた山寺薬師、道路は除雪されていましたが、正面の長い石段も裏逕(うらみち)も深い雪、断念して脇の泉の水に触れて戻りました。居多ケ浜辺に立ち尽くした時間も少なくありませんでした。こうしてゆかりの地に身を置けたことに加えて、記念堂をお守りなさる九十歳を越えた前坊守さまから迸(ほとばし)るような熱いお話をお聞かせ頂けたこと、この二つが「花こぶし」誕生の原動力です。二度の大戦を堪(た)え、大切な居多ケ浜を守り伝えるべく記念堂建立に尽力された多くの方々、完成までの不思議なご縁、曽我先生、金子先生の思い出、恵信尼さまに寄せる篤い思い等々、瞳を輝かせて一気に語って下さいました。それによって八百年前のお方が平成の今も脈々と生き続けていて下さるように思われ、執筆の灯(ひ)が点(とも)されました。まだ一字も書けていませんでしたが心充(み)たされて暮の上越を後にしました。その車中で「越後板倉とびたの牧の」と浮び、あとはひとりでに筆が進んでくれました。
お消息はどこも捨て難く、それを削った心苦しさは今も続いています。 |

交声曲「花こぶし」演奏 於 上越文化会館 |
二〇〇二年大阪いずみホールでの夢のような初演の後、ご流罪八百年法要で上越交響楽団と百人を越す合唱による再演、信じがたいことでした。初演の折、林正寺ご住職は上越でこそ演奏すべき曲と思われたと、後から聞かされました。そして迎えた本番。一年にわたる合唱の方々の猛練習、定例演奏の間を縫ってのオーケストラの練習、安谷屋先生の上越通い、大阪御堂(みどう)合唱団定演での再演、これが見事に結晶しました。特に演奏に先立つ詩の朗読は身に沌(し)みとおりました。恵信尼さまの地に坊守をお勤めなさる方にして初めて可能なことでした。送られたDVDによりアップになるコーラスのお一人お一人の表情は、恵信尼さまは過去のお方ではない、少なくとも私の中で赫々といのちの火を燃やしておいでになりますと訴えて居られる様でした。二十五日からのご法要全体に主催される方々の真実が溢れていましたが、その集大成の演奏でした。これを底から支えてくださった陰のお力へも感謝せずにはいられません。 今再び越後を襲った地震に難渋される方々と、親鷲聖人と恵信尼さまが乗越えられた御苦労とが重なって、お念仏がひとりでに湧いて参ります。 合掌
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