「高田別院親鷲教室」という名で毎月12日の集いがはじまって3年目に入っています。この名でスタートするに当り何をテキストにするかいろいろ議論をしたことを思い起こします。その結果が『歎異抄』をテキストに、しかも「『歎異抄』に聞く」という形でこの講座がはじまりました。
別院に参詣(さんけい)される方々は、他の寺でおこなわれる聞法の会と違い、いろいろな人々が集まって来られるために、毎月同じテキストで進めることが大事になると思います。そして私が最も注意したことは、テキストを参加者と共に、黙読ではなく声に出して読むことから始めました。
それはテキストである 『歎異抄』をご自身の口で声に出して読むことの大事さを感じてほしいと常に思っていたからです。今日は短時間に能率よく黙読することがあたかも大事であり大切と思われていますが、決してそうではなく、『歎異抄』を声に出して読むことが重要と考えたからです。音読の良さは、「自分の声をもう一度自分の耳で聞く」ということが必然的に起こってくるからです。
さて 『歎異抄』は、多くの宗教書のなかでも、なぜ多くの人々に読まれ続けているのでしょうか。また、何故読まなければならないのでしょうか 『歎異抄』は「人間とは何か」「生きるとは何か」を我々一人一人に語りかけているからです。ある先輩は「読めば読むほど、『歎異抄』は立派に生きることを教えてくれる。生きるための書であって、立派に死ぬ準備をするための書じやなかったと」と語っておられます。まさにその通りでないかと思います。
「序」に、「よって故親鸞聖人御物語の趣、耳の底に留まるところいささかこれを注(しる)す」とあります。著者唯円(ゆいえん)さんが師である親鷲聖人の教えを「耳の底に留まるところ」と表現されています。ところで私たち一人一人は、親鸞聖人の教えをどのように聞いているのでしょうか。
唯円さんにして『歎異抄』を書かしめた理由は、「先師口伝(せんしくでん)の真信(しんしん)に異なる」この一言かと思います。ここで注意すべきは「異なるのは、この私」なんだと、我が身を問うことです。この私自身はどうなのかと。他人様のことはわかってもこの私はどうなのかということです。この私自身がいただいていると思っている教えを確かめることが『歎異抄』を学ぶべき最大の理由でないかと思います。したがって、この講座では参加者と共に話し合いをすることが本当に大事なことであると思います。スタートのころより声に出すことから『歎異抄』に学び、参加者と共に「『歎異抄』に聞く」、これこそがこの講座のいのちであると思います。
多く切方々の別院の集いの参加を今からお待ちしています。
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| 『歎異抄』 永正本 (大谷大学蔵) |
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