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再発見の歴史から |
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今年もまた、尾神へお参りに寄せていただく三月十二日がめぐってきました。おりしも親鷲さまの七百五十回忌のご法事が勤まる直前、第十二組の朝川睦洋組長さまのお声がけで、そのお待ち受けともいえる、お逮夜勤めの小集会の場をもたせていただけることになりました。
そもそも、遠く居多ケ浜をも見通せる雪崩事故現場近くの丘に、報盡(為期)碑が建てられたのは、事故から四年後(碑には明治十六年十一月となっていますが)であり、この国で同一規格の五万分の一の地図が発行された中に(大日本帝國陸地測量部明治四十四年測量・大正三年五月二十五日印刷)、「記念碑」として図示されていたにもかかわらず、いつの間にかごく限られた人の記憶にとどまっていたと思われます。 |
 尾神嶽からの眺望 |
| たまたま佐藤扶桑(大蓮寺前住職)さまによって、昭和三十一年『同朋』誌に再発見の報告がされると、同朋生活運動から生まれた同朋会館で、昭和三十五年にはご本山特別招待の殉難者遺族の奉仕研修がもたれ、学年の七百回ご遠忌にあたっては、圓田神社であずかっておられた大毳(おおぞり)が高田教区の坊守会の寄金で両堂をつなぐ廊下に毛綱と共に並べられるようにをりました。こうしたことで、この地でも古海香雲(林正寺前住職)さまを中心とした記念堂建立の活動、国分寺の竹之内草庵への教区からのささやかな寄金といった浜に向けられていた聖跡顕彰のいとなみが、嶽へと転ぜられ、その後の殉難百回忌にあわせての参道の補修・パンフレットの発行へと進められてゆきました。 |

殉難の道を歩く |
| 時を同じくして、お寺の地域集団(組(そ))の連係による活動の創出を目した「地区制」によって、一つにつながれることとなった東部地区三ケ組は、青少年スキー教室、お寺を解放する社会問題の研修会、同朋大会の三年ごとの尾神開催を選びとり、その刻々のかかわりで汗を流すと共に、参加者の声をもって次を組みたてる手法を定着させることができました。それからすればこの先の半世紀をどのように展望し、次の世代にどのように伝えてゆくのか、再発見へのいざないをうけることしきりのこのごろです。 |
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